中根すあまの脳みその160

左右で違う種類の靴下を履いていることに、今、気づいた。

同じ種類のスニーカーを色違いで買い、左は緑、右は紫とちぐはぐに履き、浮かれた調子でご機嫌で街に繰り出す私である。身につけるものに関する大抵の違和感はプラスに捉えて、逆に可愛い?ととぼけることができるのだが、今日ばかりは。
今日は、いつもの洋服も化粧も爪も封印しなければならない日であり、靴もまた、私が今まで履いたことのなかった、足を入れる穴が、まるで歯医者で無理やり広げられた口のように大きい、なぜこの形に落ち着いているのか、また、なぜこの形が"真面目な"場面で重宝されているのか、全くもってわからない、そんな靴なのだ。
初めこれを履く時、どのような靴下を履けばいいのかわからなかった。調べてみると、冬場はストッキングの上に、それ以外の季節は浅い、極限まで浅い、これまた歯医者の口のような靴下を履くそうだ。促されるがままにその靴下を買ってみたはいいが、案の定とてつもなく脱げやすい。靴も含めて脱げる。街中で脱げてみようものなら、思わず後ろに人がいないか5度見してしまうほど、恥ずかしい。そりゃそうだ。こんなに口があいていたら、中からよだれでもなんでも垂れてきて当たり前だろう。実用性という言葉を知らないのだろうか。この靴を作った人は。間抜けな姿を大勢の人に晒す危険性があるのに、なぜこの靴を選ぶのか、余計に分からなくなった。

極限まで浅いその靴下を持ってしても、余りにも口が大きなその靴を履くと、靴から靴下がはみ出て、みっともない格好になる。これ以上浅い靴下と言うと、もう、靴下の役割はほぼ果たせないだろう。
ここで一行目に戻る。
そうだ。私は今日、左右違う種類の靴下を履いていた。浅い靴下の、浅さ加減が違うのだ。これを読んだ貴方は、人はそこまで見ていないと言うだろうか。ただでさえ、自意識過剰な私だ。いつもはそう言い聞かせることによって、自意識と何とか仲良くやっているのだが、こればかりは何だか、そうも思えない。相手の目線が足元に向いてしまったら最後、私の哀れな間違いに気づかざるを得ないだろう。不運なことに今日は、人通りの多い街に、一定時間身を置かなければならない。
これでは私はピエロだ。
こうなったら開き直って、道行く人々が私の靴下に気づいたときに、その間抜けさに少しの安らぎを与えられるのなら、それでいい。そう思うことにしよう。

今日という日が、忙しなく、充実していて、靴下のことなど思い出さなくて済むように、そう願う朝の電車内である。

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