中根すあまの脳みその164

私は階段が嫌いである。
階段を目の前にするといつも、ああ私の世界一嫌いなものは階段だ、もし世界一嫌いなものは何かと聞かれたら絶対にそう答えよう、と志を強くする程に、私は階段が嫌いなのである。

私には体力がない。
気力であれば人一倍も二倍もあるのだが、体力に関しては我が身ながら心配になるくらいにない。中学、高校と体育の時間にやらされた、”生き地獄”こと、シャトルランの記録はたったの10往復できれば上出来というものであった。もはや、10を目標としていた。私にとってみれば、それだって死ぬ覚悟だったのだ。もちろん、いつだって学年で最も早く脱落するのが私であった。かえって清々した心持ちがしたことを覚えている。
故に階段が嫌いなのである。

突如目の前に現れ、拒否することも出来ず、肉体の疲労を余儀なくされる、あの強引な態度も嫌いである。エスカレーターがある場合には、例えどれだけその場所から離れていようと、そこまで移動する。しかし、時間がない時や、そもそもエスカレーターがその場所設置されていない時は、さすがに腹を括る。
エレベーターは、また少し違う。
エレベーターは乗るまでに踏むべき手順があり、また、他人との接触もある。私にとってエレベーターはエスカレーターと比べて、著しく気軽さを欠いた手段であるのだ。
そもそも私は、エレベーターの仕組みをあまり理解していない。どの部分を理解していないのかも理解していないほどに理解していない。例えば、エレベーターに乗り、目的の階数のボタンを押したはいいが、その階にまだ到達していないのに、突如開いた扉につられて降りようとしてしまう。その階にエレベーターを待つ人がいた場合、扉はこちらの動向とは関係なく開く、という仕組みなんだろうが、その考えが何故か私にはなく、扉が開いたら条件反射で降りようとしてしまう。最近アルバイトを初めて日常的にエレベーターに乗るようになったのだが、一日に一度は必ずこの失敗をしている。エレベーターは私にとって得体の知れない存在なのだ。

ご存知の通り、私は神奈川県の僻地に住んでいて、最寄り駅は今どき珍しい、所謂”無人駅”なのだが、もちろんそんな駅にエスカレーターなどはない。ホームに行くためには、階段を上り、さらに降りる、という重労働が必要なのである。しかし、この駅にはエレベーターはある。一度連絡通路までいって、新しいエレベーターに乗り換え、やっとホームに降り立つことができるという、二度手間も甚だしい、効率激悪エレベーターなのだが。
このエレベーターがまた、例えるなら、二郎系のラーメン屋に一人で行こうと試みる時のように、使いづらい。あの手のラーメン屋は女ひとりではやはり入りづらい雰囲気があるが、この駅のエレベーターは、元気な若者では乗りづらい雰囲気がある(と勝手に思い込んでいる)。のどかな田舎の無人駅なのでやはり、利用者には高齢の方が多い。するとエレベーターの中の年齢層も必然的に上がる。
若者は迷うことなく階段を上り、その若さを周囲に漂わせるが、私にとってそれは世にも恐ろしい絶壁であり、問答無用で避けたいのだ。
私は覚悟を決めてエレベーターに乗り込む。
自意識に支配されし悲しいモンスターである私は、乗り合わせたおじいちゃんおばあちゃんが、あんらまあこの子は若いのにエレベーターなんか乗ってえ、と日本の将来を案じているのではないかという被害妄想に駆られる。改めて文字に記してみると、こういうときの私というのは哀れで仕方がない。私は、今日はたまたま体調が悪いんです、というように、類まれなる疲労感に苛まれた悩める若者を演出することによって、その場に存在しても良い要素を自分に見出す。

何をやっているのかと笑ってくれて構わない。しかし、それ程までに私は階段が嫌いなのだ。この世界から”階段”という忌々しい概念が消えてなくなることを願って、今日も生きるのである。

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