中根すあまの脳みその174

私の2022年は、人知れず、激動の、怒涛の、1年間であった。
わざわざ人知れず、という言葉を使っているのは、人生において極めて重要な決断をしているにも関わらず、それを、大きな声で報告することはできないという、そういった局面に立たされることが多かったためである。
私という人間の基本的な性質として、これは最近自覚したことでもあるのだが、おしゃべりである、ということが挙げられる。自分の置かれている環境や、心境に変化があった場合、それを大声で、心の赴くままにしゃべり散らかしたい、そんな人間なのである。
そんな私にとって、今年という1年間は、なかなか難儀なものであった。

1月。
成人式を終え、晴れやかな気持ちでのぞんだ、劇団塩豆大福の旗揚げ公演『すちーる・ざ・むーん』の稽古。幾重にも重なった自我との戦いの日々。あのときの私は、思考の矢印の方向が常時自分に向いていて、その結果膨れ上がった無駄な思想のせいで、不当にほっぺたが膨れていた。物理的に。むくみというものを初めて認識した。そして、内面的な不摂生が、見た目にも表れるということを知った。

3月。
やむを得ない理由で公演ができなくなる。このときの心境については、すでにここで綴っていたように思うが、虚無の日々が続いた。1日の半分を、YouTubeに投稿された、工場で飴がひたすらつくられていく動画を見ることに費やしたりしていた。まだ個体になる前の飴は、巨大なアメーバでしかなく、それを眺めているとなんだか自分の存在がちっぽけに思えてくる…というようなことは別になく、ただただ、甘そうだなあ、あつそうだなあ、色が綺麗だなあ、と、それだけ考えていた。頭を空っぽにしたおかげか、やがて私は虚無状態から脱出し、むしろ通常より元気になった。それが、3月の終わりの日だったように思う。
その日は、学校の健康診断があり、仕方がないので久しぶりに外に出たのだ。
稽古期間中、毎日のように乗っていた京王線に乗り、まだ死んではいないが脳内を駆け巡る走馬灯のような記憶をとともに、窓の外を見ると、すっかり春の景色が広がっていて、なんだか圧倒されたのを覚えている。春だったのね、と、なった。そしてその時、イヤフォンから再生されていたのが、Mrs.greenappleの『ニュー・マイ・ノーマル』であった。中学2年生、思春期真っ盛りの私は、当時まだ小さいライブハウスで、俺たちにはこれしかないんだ、というような形相で音楽をかき鳴らしていた彼らに惹かれ、彼らの曲ばかりを聞いていた。マジでありきたりで恥ずかしい話だが、その後ヒット曲を連発した彼らが、あんなに、世界はクソだと言っていたのに、急に、世界は素晴らしいだとか、世界は愛で溢れているだとか言い出して、当時の私は分かりやすく打ちひしがれたのだった。私がそっぽをむいている間に彼らは解散し、活動を休止、そして再開したタイミングがまさに、その頃であった。
その曲をきいたとき私は、純粋に、知りたいと思った。たった、5年かそこらの間に彼らの間に起こった出来事を、そしてその時にもたらされた心境の変化を。なんだかとんでもないもののように思えたし、それを分かりたい、分かる自分でありたいと、痛切に願ったのだった。その気持ちの前と後では、自分という人間はだいぶ違ったものになったように思う。

6月。
映画を撮ろうと思い至って、そのための脚本を書き終えた頃、滅多に聞くことのないスマホの着信音が鳴り響いた。その日私は、高校3年の頃から出演しているYouTube番組の共演者ふたりに渡す、誕生日プレゼントを買いに出かけていた。着信があったのは、帰宅してすぐのことであった。内容は至ってシンプル、その番組の定期的な更新が終わるという。簡単なことのはずなのに理解できない、脳が勝手に逃避を始めてしまう、少し前に同じような経験をしたようなきがするな、おかしいな。漠然とした既視感を感じながらも私は、その事実を受け入れようとした。つい数時間前まで、長く続いたその番組に思いを馳せ、愛おしく思っていたから余計、その事実が現実と、どうにも乖離しているように思える。まあそうだ、今までがラッキーだったんだ、恵まれ過ぎていたんだ、呪文のようにそれを繰り返し、現実味のない現実を飲み込むように酒を飲んでしまって、翌朝、死体となって発見された私は、その日が朝から番組のロケだったということを思い出し、戦慄。情けなく、父親の運転する車に乗り込み、二日酔いから来る吐き気を懸命に堪えながら現場に着いたのは、集合時間をとうに過ぎた頃であった。おそらく我が人生最悪の日である。なんていうか、人間として最悪。最低。今思い出しても車内でもよおしたのと同じ吐き気が込み上げる。
他のふたりと違って私には、他に仕事がなかった。自分と自分の特技とをつなぎとめておけるのが、その場所しかなかった。もちろん、それは自分の努力次第でどうにでもなると分かっている。だけど、そこですぐに切り替えられるほど、私の中でその場所は、簡単なものではなかった。物凄く、大切な場所であった。人生の中で唯一無二と思えるくらい。
自分の足元の地面だけが急になくなってしまったかのような感覚、あたたかいコートを他人の手によって理不尽に剥ぎ取られてしまったような感覚、襲い来る不安とやるせなさが、私を限りなく弱くした。
そして、最も苦痛だったのが、それを、今まで応援してくれていた人たちに言えない事、謝ることができない事、だった。3年間にも及ぶ物語を、こんなに雑に終えていいはずがない、そう強く、強く、思った。思うことしかできない現実が、無理だった。わりと今も、変わらない気持ちで、無理、である。
それから私は分かりやすく見失った。
その証拠に私は、久しく見ていなかった飴の動画をまた見ていた。甘そうだなあ、と思った。

8月。
映画を撮れば、何かが変わると思った。
根拠はないが、人生の岐路に立っていることだけは分かった。その選択をするには、自分の中にもう少し、説得力のようなものが必要だと思った。私は、その憂鬱を少し、先延ばしにすることにした。
その作品の撮影において私が拘っていた、ノーカット一発撮りという無茶な提案を押し通すのにはそれなりの精神力が必要だった。難しいことをしてもらっているという罪悪感が常につきまとい、仲間とのコミュニケーションが億劫になってしまう。しかし、その頃の自分にとって、最優先事項はまず作品を“完成”させることであった。苛々するほどに合わないスケジュールの中で、いかに確実に完成にこぎつけるか。そういった意味では、今までの人生の中で、最もなりふり構わず、無我夢中な自分が、そこにはいたかもしれない。
今思うとかなり脆いものではあるが、その日々のなかで一種の自信のようなものを手に入れた私は、そこから怒涛の勢いで、決断をしていく。こんなに一気にいろいろ決めて大丈夫だろうかと、不安になる瞬間もあったが、まあ人生ってそういうもんじゃない?と思い直して強行突破した。まだ、後悔はしていない。

10月。
新しい環境のなかでもがく。
派遣のアルバイトで配ったティッシュ。受け取るときに、「頑張ってください」と言ってくれたお兄さん。眩しかったな。そして、思い出深い、催事の台湾カステラ(先週の記事参照)。新しいバイト先の、優しすぎて逆に、急に「ごめん、悪いけど臓器、売ってくれないかな」とか言い出しそうで怖い店長。出会いに満ちた日々であった。
そして、さらなる大きな出会い。
学校で、舞台美術の授業を受け持っていた美術家の先生と連絡をとった。そもそも彼女の作品には痛いくらいの感銘を受けていたのだが、タイミングがつかめず、一歩踏み出さずにいた。しかし、この怒涛の人生ムーブの中で気が大きくなっていた私は、先生の元で学びたいという旨のメールを送る。本当にどうかしていたと思うくらい、この時期は一歩一歩の歩幅がでかかった。
先生からの返信は、私の申し出を歓迎するというものだった。

11月。
先生に指定された日。こわごわと向かう先は、彼女が手掛けた作品のゲネプロの現場である。
見る物すべてに感動し、頭をぶんぶんと縦にふりながら話をきく私には、その数分後、深い思考の渦に巻き込まれることなど想像すらできていない。
今思うと、それはきっと面接のようなものだった。カフェで向かい合って、先生に自分の身の上や将来の展望を話す時間があり、その頃ちょうど、年末に公演を打ちたいという思いの元に、劇団を少しずつ動かし始めていた私は、無論その話も彼女に伝えたのだった。しかし、その時の私の語り口には、若干ネガティブなニュアンスが含まれていたように思う。自分一人の思いの元で人を動かすのが、なんとなく辛く思えていたのだ。私がこんなことを言い出さなければ、みんなは大変な思いをしなくてすむのに、そんな考えが頭から離れなかった。要するに、夏に自分が疎かにしていたところのツケが回ってきたのである。そんな私を見て先生は、言った。みんなが同じ方を向いていないのならやる意味がない、と。言われたその瞬間から、私は、どこかブラックホールのような真っ暗な場所に放り込まれたような感覚に陥り、そこから帰ってこられなくなってしまった。
その間も日々は続く。
しかたがないので私は、1日の大半を暗い思考の渦の中で過ごし、そして先生の発言によって引き出された自分の感情を整理した。それは、衝撃と、恐れと、悲しみと、まあいろいろひっくるめて、結局、悔しさ、だと、最終的にそこに落ち着いた。認めてしまうと急に、ものすごい勢いで感情の濁流が押し寄せてくる。
悔しい!!!!!!!!!
この1年間、私が、常に、100%のまっすぐな、まっすぐすぎる感情を、馬鹿みたいに、惜しみなくぶつけてきたものに対して、やらないほうがいいなんて???????
そんなこと、いうなーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!
完全にスイッチを押された私は、まず、仲間に対する認識を変えた。
同じ方を向いていないのなら、向かせればいいだけの話である。
わけわからんこいつ、と思っていた相手と電話で話をした。3時間くらい。結局わかんなかったが、少し自信がついた。稽古では、思ったことは必ず伝えると、自分の中で決めた。言いづらくても、言い方を工夫して、伝える。相手にとってみれば、些細で気づかないような変化だろう。しかし、私の中では、以前の自分とは別人と思える程の変化であった。少し前まで、すべて自分に向いていた思考の矢印が、回れ右して全力で他人に向くようになった。その実感が明確にあった。それに伴って、私のほっぺたもまた、少しずつその質量を減らしていったことは、言うまでもない。

12月。
先生の元で、手伝いをするようになって少し経ったが、基本的な生活能力がまるでない私は、些細なことで彼女を苛つかせてばかりいた。そのたびに、ちくりと胸が痛み、自尊心が失われていくのを肌で感じたが、よくよく考えるとそれもなんか癪なので、私は自分自身を愛の戦士だと思って生きることを決めた。その苛つきは私に向けられた愛である。愛を受け止め愛で返す。私は愛の戦士。アホみたいだが、その心構えがあれば、この先何があっても、しぶとく生き延びることができそうな気がした。そういう心がもともと備わっている人間もいるのだろうが、私はそうではない。無理やりにでもなるのだ、愛の戦士に。
さて、劇団の公演が近づいて、私の生活は急激に賑やかなものとなる。
しかし、それまでの独りよがりな焦燥感とはやはり違うように思えた。ゴールが見えている上での、焦燥感。捉えようのない感情ではなく、ちゃんとひとつひとつの感情に名前があり、それを自分で自覚できていることが嬉しかった。
しかし、新たな敵というのは必ず現れる。
今度の私の敵は、自らの感性に対する不安であった。
作品というのは、少なくとも私の場合、己の感性に頼ってつくられたものであり、己が面白いと思ったもの、人に見せる価値があると思ったものの集合体であると認識している。すなわち、己の感性に自信が持てなければ、それはゴミ同然の存在に成り下がってしまうのだ。
その感覚を、認識してはいた。書いているときは超面白い、超天才、と感じるのに、一晩寝て見返してみれば、それはただの恥の塊でしかない、というようなことは日常茶飯事である。
なんとなく予感はしていたが、それは本番が近づけば近づくほど、大きく成長し手に負えなくなっていった。
演出をするというのは、感性をひとつひとつ選び取るという作業であり、これは、他人の共感を呼ぶものなのか、共感は呼ばないがそれがむしろ刺さるといった類のものなのか、そのどちらでもないのか、冷静に分析する必要があるのだった。分析をすればするほど、分からなくなる。己の感性をはかるものさしがほしいと何度願っただろうか。だけどもう仕方がない。信じるしかないので、自分を奮い立たせて生きる。
本番3日前。
役者のひとりが、自身の役を、めんどくさい人だ、自分とは分かり合えない、と言った。
そのとき私は、自分は今、他人に己の感性を押し付けているだけなのではないか、と思い至った。自分にとっての宝物が、必ずしも、他人のそれではない。当たり前のことだが、唐突に、その事実が強烈な存在感を放つ。なんだか、とてつもなくショックだった。ピンと張っていた糸が、耐え切れず切れる感覚。
帰り道。目的の駅で降りずに、小田急線を2往復。
やっとのことで降りた駅で私は呼び止められた。振り返ると、そこには高校生の頃の友人の姿が。彼女が話し出した途端、今まで私が存在していた場所とは全く別の、なにか懐かしい世界での物語が、唐突に流れ込んできて、私はその勢いにしばしのまれた。
やっとの思いで受け応えていると、彼女はだしぬけに、「変わってないね!!!」と言った。
ああ、私、変わってないのか。
汚い水の流れが唐突に堰き止められたのを感じた。
それから私は、大丈夫だった。本番を終えるそのときまで、なんとなく、大丈夫だった。
なんの解決にもなってないのにね。

とにかく毎日賑やかだった。
心の中にいつも誰かが棲んでいて、その人のことを常に考えていた。
自我モンスターの部屋に、絶えず誰かが遊びに来ているような感覚だった。

つらつらととりとめもなく綴っていて気付いたのは、
文章全体に、なにか、水の流れのようなものが見えるということだ。
確かに私の2022年は、完全に、なにかの流れの中に生きていた。
来年はもう少し、もう少しだけでも、のびのびと息ができる場所で暮らせることを、願う。
しかしまあ、充実した日々だった。もうこれ以上は、いらないけどね。

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