中根すあまの脳みその92

久しぶりにnoteに投稿するために小説を書いている。
高校生の時は、2000文字くらいのショートショートをぽつぽつと書いて深く考えずに投稿していたが、最近はその気軽さが分からなくなってしまった。拙いながらも舞台の脚本や映像作品の脚本(高校の部活や、シナリオコンクールへの応募、単独公演での上演を目的としたもの)をいくつか書いてみて、自分の文章の欠点を自覚し意識しすぎたあまり、たった1行の文でも、その表現で良いのか、その言葉で良いのか躊躇してしまうようになった。また、変わった設定や突拍子もない展開に頼りすぎていたことに気づいてからは、そういった要素を抜いても物語として成立させたいと思うようになり、それを考えすぎた結果、遊び心のないどこにでもある話になってしまった。失敗や反省を活かすということは、思っている何倍も難しいことである。
また、ここ最近の私はやたらと主義主張がうるさい。数年前と比べて、これはこうあってほしい、自分はこうありたい、というような拘りが増え、そしてその拘りひとつひとつへの思いも強くなった。そうなると困るのは、自分のつくった壁を自分で越えられず、停滞してしまうことだ。クオリティをあげていく上で良い傾向なのかもしれないが、視野は狭まっている気がする。
こういった話をすると多くの人がそれは「若さ」だと簡単に言い放つ。そりゃそうだ、私若いもん。そんなこたあ知ってるんだよ。それを知った上で言ってんのよ。「若さ」だと言われると腹を立てるあたりが圧倒的「若さ」だという自覚はあるが、自分が年を取った時に悩める若者に「若さ」という言葉一つで片付けてしまうような真似は絶対にしたくないと日々思っている。

本来であれば「その時の世の中」という意味でしかない「ご時世」という言葉が、息苦しさやもどかしさも一緒に表現しているこの「ご時世」で、果たして自分は進化しているのか退化しているのかさえ分からないが、経験したことのすべてが後の自分の役に立つと信じて前向きに生きる。
とかなんとか真面目なことを言っているが、オンライン授業になってから食欲がとまらない。家にいると腹時計がやけに正確で困ってしまう。夜ご飯の前だけど、おにぎりを食べてしまおう。
小説を書き進めるのはそれからだ。

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