中根すあまの脳みその225

激しい川の濁流に流され、息をつく暇もなかったのが私の2022年だとすれば、2023年は、その川からあがり、水を吸って重くなった体を引き摺りながら己の足で歩き続ける、そんな日々だった。
なぜ進むのか。
それが分からなくなって立ち止まり、またしばらくして歩き出す。己の足で立ち、己の足で踏み出す、そんな当たり前を強く実感する毎日であった。

1月は行ってしまう、2月は逃げてしまう、3月は去ってしまう、
いつか誰かが言っているのを聞いてからずっと頭から離れないそんな言い回しが、毎日寝る前に過ぎる、そんな、あってないような冬の残りと春の始まりだった。
生きているだけで過ぎ去る日々と、一向に増えてくれないWordの左下の文字数が、まるで進まない自転車を漕ぎ続けるように気持ちだけを急かしていく。
気づけばもう、桜は散っていた。

『退屈さんたちのパレード』とは、向き合うのが難しかった。執筆の期間はどこか逃げているような感覚が付き纏い、稽古もいつもなにか他人事で。 そんな状況を打破するために、登場人物の設定を見直し、話の筋を大幅に変更しようと試みる。しかし、恐ろしく気が乗らない。パソコンを前にして何もせずに、何もしたくないという意思だけを持ち続けて、一晩を過ごしたりもした。明確な理由が分からぬまま、自分が望んでやっているはずのことができない、という状態を初めて経験した。思えばこの感覚が、今年の私を苦しめた全てだった。
しかし、進まなければいけない。
私はひとりでこの作品を完成させるのではないのだ。たくさんの人々が時間をけずって協力してくれている。ありったけの気力を持って己の怠惰を叱咤し、空虚な夜を減らしてゆく。なにか、埋まらない穴のようなものを誤魔化しながら。
いくらか余裕ができたのだ。
公演の前日に空腹感を覚えた。そんな事は、今までは有り得なかった。いっぱいなのは胸なのに、それを満腹と勘違いして黙り込んでいた阿呆な私の胃が懐かしい。埋まらない穴、きっとそれはあの頃の必死さ、ひたむきさ。前しか見れぬ頑固さ。
けれどこれはきっと成長なのだ。
そう信じ本番を迎える。
2日間を終え、私の中に残ったのは、
きっと、
ここで戦わなければならないということへ対する、畏怖の心であった。
客席に並ぶ見知った暖かい顔ぶれを見て、安堵と共に激しい焦燥感に襲われた。公演を終えても、それまでとなにも変わらないタイムラインにも。こうしていられる時間は長くないと思った。

夏になると一旦、そんなことも忘れる。
バイト先の古着屋がアウトレットモールに出張して、そこの店番をしたりしていた。人気の少ない屋外の区画でひとり、カンカン照りの昼間から甘く涼しい夜へと移り変わっていく様を眺めた。それが妙に楽しかった。
夏の曲を聴きながら外に出るのが嬉しかった。私は、私が、こんなハッピーサマーウキウキ野郎だったとは知らなかった。
8月に入ると、新しい舞台の稽古に参加していた。自分が書いたものではない役を演じるのは高校生ぶりだった。自分が無理やりつくったわけではない居場所があるのも、それくらいぶりだったように思う。毎日そこへ行けば人がいて、やることが与えられる日々というのは、"自分は間違っていないんだ"と信じることができ、正直とても心地良かった。同じ立場の人間が横にいることがとても幸せだった。しかし、このままここに居続けることはきっとできないんだろうなと、漠然と、然し確実にそう思った。
その思いが天まで届いてしまったのか、皮肉にもその居場所は予定よりも早くになくなった。舞台が中止になるのはこれで2回目である。それも、同じ理由で。
どうにもならないその思いをぶつける為に2週間でつくりあげた作品は、きっとどうにも独りよがりで早急なものだったと、今になって振り返る。当時の自分にはそれが必要だったと、そういう考え方もできるのだが。
この時の消化不良の気持ちもまた、夏が終わってからの私を悩ませることになる。

9月。まだ夏が充分に感じられるあの日、私は事務所の稽古場に呼ばれていた。
質素な部屋だ。だけど、私の青春時代の記憶が詰まっている。私は、その場所が憎い。尚且つ、愛おしい。
複数人がそこに集っていると思い込んでいた私は、大人たちが並んで座っているだけのその場所を見て、わりと、すぐ、すんなりと、その状況を察した。
そして間もなく、6年間の日々にあっさりと幕が閉じられた。
自分の手で終わりにできなかったことを、今でも激しく悔やむ瞬間がある。
ずっと、立つ舞台が違っている感覚はあった。しかし、そこに適応したいと、自分という原型を留めたままで、そこで輝きたいと願っていた。
なぜか。
好きだからだ。そこで生きる人々が。
だから粘った。向いていないからやめろ!と何度も言われてきた。やめてやる!と泣き喚き周りを困らせたこともある。諦めが早い私の人生の中で、ここまでひとつのことを継続したのは、どうにもこうにもこれが初めてであった。
急にいろいろ剥ぎ取られてしまって、私は私を名乗れなくなってしまった。
とりあえずコンビニでおにぎりとカップラーメンと酒をたくさん買って帰った。

秋はどうにも駄目である。
下がりゆく気温とともに、己の体温をも冷たくなっていく気がした。それを誤魔化すように働いて働いて、その場では満たされたような気になっても、静かになると思い出してしまう。いつか応募したコンクールの講評の中にあった、あまりにも醜い文字の羅列。思い出したくない景色。過去。心もとない現実。
生まれて初めて肌が酷く荒れた。
化粧ができない。それだけで気力もなくなる。
いつだって、己のことをべったりと監視する己がいる。前向きな気持ちになった瞬間、それをぺしゃんと平手打ちするもう1人の私。
3秒で気分が180度変わっている。
それが怖くて身動きが取れない。
↑全部贅沢な悩みじゃんw
↑こう思わないといけない気がする。

そして気づく。
春に覚えた違和感も、夏に感じた焦燥感も、
己を見失っていたことで生じる弊害だったと。
間違えないように、と思う。
みっともなくないように、と思う。
無駄がないように、と思う。
まだ、己の足で立つことすらままならない私が、間違えることなく、みっともない姿を晒すことなく、そして、無駄なく生きることなどできないし、その必要もないのに。
濁流にのみこまれていただけの去年の私には見えなかった、新しい景色にすっかり魅せられ、迷子になっていた。

私は何者でもない。
だけど、何者でもない私の存在を待ってくれる人がひとりでもいるのなら、私は今の私を保つべきだし、
そう思えることは、
うん。
そう思えることは、
すごくすごく幸せなことだと、ようやく気づいた。
そのための、時間だったのだ。
寒空の下で、また新しい物語と向き合いながら、わたしはやっと腑に落ちたのだ。

それにしても、お酒が美味しい1年だったなあ。来年もお酒が美味しい1年を過ごせますように。
それなら、私はきっと幸せだ。
どんなことがあろうとも。

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