中根すあまの脳みその89

電車通学にまだ慣れない。
小学校徒歩5分、中学校徒歩10分、そして高校は自転車で7分という、朝にとことん甘えた生活を送っていた私が、この春から片道1時間半をかけて学校に通っている。
満員のローカル線も、一度も座れない京王線も私にとってはまだ、違和感を感じるものである。

電車に揺られている時間は基本読書をして過ごしているのだが、運良くはしっこの席に座れたときなどは、ついつい睡魔に負けてしまう。
周りは知らない人だらけ、決して落ち着ける場所ではないはずなのに、電車というのは何故こうも気持ちよく眠ることができるのか。
今までもライブの帰りなどにそんなことを考えていたが、早朝はまた違った不思議さがあることに気づいた。

車内全体の雰囲気が、うつらうつらしてるように感じる。それは単純に、眠っている人の数が多いからと言うのもあるだろう。だがそれだけではないような気がする。車内に響くアナウンスの声はどこかやさしく静かで、これから各々の戦場へ向かう人々をいたわっているように聞こえるし、電車の揺れも心做しかあたたかく感ぜられる。朝の気だるさや爽やかさが、無意識のうちに自分の心に影響を及ぼしているのかもしれない。

私が、だいすきなはしっこの席に座れた日、隣の人も、そのまた隣の人も、そのまた隣の人も船を漕いでいた。前に立つ人ですら目を閉じていたのだから、なんだか笑顔になってしまった。その様子に、私はある記憶を思い起す。

それは私が幼稚園にかよっていたころ。
夏休みの期間のうち母親が仕事にいく日は、幼稚園に併設されたちいさな建物で過ごした。そこでは、午前中を遊び回って過ごし、お昼ご飯を食べたあと、おひるねの時間があった。いつもは決してはいることのない、2階の古ぼけた畳の部屋に布団を敷き、眠たくないのに子守唄をきかされる。隣には話したこともない、今日初めて顔を見た子。反対の隣もまた然り。なかよし同士が集まって騒いでしまう事を避けて、先生が場所を指定したのだ。寝るもんか!と意地を張っていたのに、すこしも眠たくなかったのに、全然くつろげる場所じゃないのに、いつのまにか睡魔はすぐそこまで来ている。隣を見るとまだ笑顔すら見たことのない子どもの、間抜けな寝顔。へんなの、と思いながら意識を手放す。
朝の電車は、おひるねの時間によく似ていた。

首が急降下して目が覚める。
なんとなく顔をあげると、目の前の窓から朝の光がきらきらと輝く。
おひるねの終わりの時間より少し早く、自分だけ目を覚ましてしまったあの日に見た、締め切ったカーテンの隙間からもれ出す光のことを思い出した。

寝顔を見ると何となく親しくなった気持ちになってしまう。間抜けな寝顔のあの子とは、おやつの時間に仲良くなった。
大学生の私は、隣で眠っていた女子高生の背中を、親友のような気持ちで送り出すのだった。

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