中根すあまの脳みその136

外から声が聞こえる。
私を呼ぶ声だ。きっとそうに違いない。
男の声と、女の声が聞こえる。誰だ。誰の声なんだ。声だけではわからない。しかし、これだけはわかる。私を、呼んでいる。
額を、冷や汗が伝う。心臓がばくばくを通り越してがんがんと爆音で音を立てて脈打つ。
携帯の電源を入れるのが怖い。本当は一刻も早く現在時刻を確認して、状況を把握するべきなのに。自分が犯してしまった失態に気づいてしまうのが恐ろしくて、布団から手が出せない。
心を決めて、震える手で、携帯を手繰り寄せる。時刻、8時。それは、ゼロから時間をかけてつくりあげた、己の全てを懸けてつくりあげた、一世一代の旗揚げ公演の日の朝にしては、遅すぎる目覚めだった。

外から聞こえる声はきっと、劇団関係者のものだろう。公演当日なのに連絡のない私を訝しんで、呼びに来たのだ。
ああ、終わりだ。今日、この瞬間に至るまでの記憶が走馬灯のように駆け巡る。フィクションではない、人間の脳みそは「終わり」の予感を覚えると、本当に走馬灯の夢を見せるのだ。役者を頼んだが断られてしまった、あの日。初めて公演に参加するメンバーが顔を合わせた、あの会議室。脚本執筆に苦しんだ、あの夜。積み重ねてきたひとつひとつが、この瞬間、”寝坊”という余りにも救いようのない失態によって、帳消しになってしまった。私は、全信頼を失った。せっかくここまで、積み上げてきたのに。終わった。

駄目だ!!!!!!
私は己の身体を刀で切り付けるような鋭い動きで、体を起こし、布団から出る。そして部屋のドアを開けた。後悔が、嫌悪が、やるせなさが、声となり食道を燃やす。喉が張り裂けそうになる。
「…ねえ!!!!!!!!!!!!」
家族はぐっすりと眠っている。その声は誰にも届かぬまま、空間に消えていった。
意識が少しずつ明瞭になる。まず、みんなに謝ろう。謝って済む話じゃない。わかっている。だけど、謝って謝って謝り倒そう。きっと、私の遅刻でその場にいる全員の士気がさがる。それはきっと、公演にも影響を与えるだろう。しかたがない。だけど諦めない。ここから、取り戻そう。できるだけ、確実に、取り戻そう。
恐れながら、待ち遠しく思いながら、ちょっぴり寂しがりながら、この日想っていた。そう、今日は3月25に…。

うん?
3月25日?今日が?
それはなんていうか、あまりにも、急じゃないか?

私は慌てて、携帯の電源を入れる。
大きな文字で記された時刻、その下の、小さな文字。
2022年3月18日。

私は、しばし、虚無の時間を過ごした。
ベッドに無造作に座る。目はどこも捉えていない。
今日ではなかった。なかったのだ。
聞こえる声は、私を呼んではいない。近所のお年寄りの、穏やかな会話だ。

私は安堵とも恐怖とも言えない、宙ぶらりんな気持ちで布団に入った。
今日は3月18日。稽古がない。休みの日だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?