中根すあまの脳みその182

3月13日から、新型コロナウイルスの完成予防のためのマスク着用について、原則として推奨をやめ、個人の判断に委ねることが決定したという。

マスクの着用が、ちゃんとしっかり"苦痛"であった私にとっては、万歳三唱でもしたいくらいの嬉しいニュースである。
ただでさえ体力のない私にとって、マスクを着用しての日々は無駄にエネルギーを消費するものであり、また、私は顔面の上半分に自信がないため、顔の下半分を隠し、目だけで勝負せざるを得ない状況は精神的に辛く、醜形恐怖に陥りかけた。
思ったよりも早くマスクを外せる日が来た(来るはず)ことに、喜びを隠せない。春の訪れがより一層楽しみに感じられる。

しかし、これはあくまで私の感覚である。
マスクを着用することに対して特に苦痛を感じない人、むしろ顔が隠れていることによって安心感を覚える人、私とは逆でマスクを着用している状態の方が容姿が良く見える人。
この3年間のマスク生活が、それまでの生活より過ごしやすかったと感じている人も、きっと多くいるだろう。
もちろん、感染予防として引き続きマスクを着用したいと考える人も。
従って、3月13日以降日本は、マスクを着用する人としない人が共存する国になるのではないかとわたしは想像する。それは一見、コロナ禍が始まる前と同じであるように思えるが、どうだろう、それまでの日々とは少し違うのではないだろうか。3年間という時を共に過ごし、人々の生活の中でマスクの存在感はぐんぐんと増していった。その結果、マスクをするにもしないにも、なにかその人の意見のような、思想のようなものが必要になるのではないかと思うのだ。
それまでどうってことなかった、とるにたらなかったマスクという存在が、コロナ禍を経て、自分はどうしてマスクをする/しないのか、その理由をひとりひとつ持つようになるのではないか。
そして、それが如何なる理由であっても、なんだか少しズレているように思えても、絶対に"否定してはいけない"という風潮が強まっていくのではないか。

だからどうということはない。
したい人はすればいいし、したくない人はしなくていい。それだけの話なのだが、私は少しだけ不安なのだ。
例えば写真を撮るとき。
コロナ禍においては、マスクをしたまま撮ることが多くなっていた。お互い気を遣いあって、なんとなく、写真を撮るときだけマスクはずそうか〜の空気感になったときにのみ、マスクをはずして写真を撮っていた。ひとりだけマスクをはずした状態で写真にうつっていたことに後で気づき、気まずくなることも度々あった。
この微妙な駆け引きがどうにも煩わしく思えていたのだが、考えてみれば、マスクの着用が個人の判断に委ねられたところで、この件に関しては変わらない。むしろ、マスクをはずす/はずさないという、個人の意志を尊重するべきという風潮が強まったぶん、一層、どちらかに合わせて写真を撮るということは難しくなるだろう。

個人的にそれはちょっと寂しいし、怖い。
もう、当たり前にみんなで顔を見せあって生活することがないのかと思うと、なんだか信じられないような気持ちになる。
極端な話になるが、
そのうち、写真にうつらなくて良い自由が生まれ、そもそも人と会わなくていい自由が生まれ、人との関わりが絶たれた中で生活することが特別ではなくなるのではないだろうか。
もしそうなってしまったら、人と写真を撮る自由、人と会う自由、人との関わりの中で生活する自由というのも、ゆくゆくは失われてしまうのではないだろうか。
人と関わらない自由を優先することで、人と関わる自由が失われてしまうように思われてならない。

と、まあ飛躍してしまったが、マスク着用の自由がより強く主張されていくことは、私の中の、なにかしらどこかしらの不安につながっているような気がする。
この話を父親にしたら、一笑にふされてしまったので、それくらいの戯言として受け止めていただければと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?