中根すあまの脳みその184
親子が電車に乗ってきた。
私は、出来ることなら私専用の特等席にしてしまいたいほど気に入っている左端の座席に腰を落ち着けて、ぬくぬくと本を読んでいたのだが、親子の登場に気づき、周囲を見回す。
まばらに空いた座席。しかし、2人分並んでで空いているところはない。そして、私の隣の座席に人の姿は無い。
私が移動すれば、親子が並んで座れる可能性について思案する。
しかし、この場合。
まだ発車まで時間のあるゆったりとした車内で、私が席をたち、どうぞ!と声をかけると、相手を恐縮させてしまうことは明白だった。まだ車内はすいており、子どもだけなら座ることが出来る、また、他の車両にうつればおそらく並んで座ることもできる、といった状況の中で、私が席を立ち声をかけるというのは、なんというか、1歩遠いところにある思いやりのような気がした。また、子どもはなにやらご機嫌ななめで、母親は子どもと手を繋ぎ、体を揺らすことでそれをなだめていた。うーん。今は立っていたいのだろうか。そういう可能性も考えられる。仮に"立っている"という選択をあえてしているとして、席を譲った私に対して、変な気を遣わせてしまうのではないか。果たして、今、私が席を譲ることが、100パーセント彼女たちのためになるだろうか。
わかっている。
考えすぎなのだ。考えている暇があったら譲ればいい。
しかし。
私は暫し考えて(考えすぎだという自覚があるのに、また、さらに考えている)、それから席を立ち、向かい側のあいている座席に移動した。特に声はかけず、あたかも、わたしこっちに座りたかったんです〜、というような顔をして。
あわよくば、気づいてもらえればと思った。
その親子に。しかしそんな考えは贅沢であったとすぐに悟る。親子は、あいたふたつの席にまったく気づいていない。
ああ。
このまま、発車まで誰も乗ってきませんように。私は祈る。そして、気づいた親子がそこに座れますように。気づいた上で、座らないのならそれでいい。とにかく、ふたつのあいた座席を前にして、座るか座らないか、彼女たちがそれを選択出来ますように。
しかし、私の思いも虚しく、サラリーマンが乗ってくる。そして、なんの迷いもなくその座席に座った。私の、特等席(私が偉くなったら正式にそういうことにしたい)の、左端の座席に。
私は学んだ。
ささやかすぎる思いやりというのは、気づかれないということ。
そして、気づかれなかった思いやりは、もはや、思いやりですらないということ。
私がこの世で最も尊敬するのは、母親という存在。その次がサラリーマンである。
従って、サラリーマンがそこに座ったのは、ほんの少しだけ、救いであった。
これからは、堂々と人を思いやろう。そう胸に刻む。
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