中根すあまの脳みその91

大学の教室には、学生証をかざして読み取らせ、出席を確認する機械がある。
授業の前に各自がそこに学生証を触れさせることになっているのだが、それができるのは授業の10分前からだ。それを待たずに学生証をかざすと、ブーッという、なんだか悪いことをしたような、己の存在を否定されたような不快な音が鳴る。誰だってこの音を教室中に響き渡らせることは避けたいはずだ。
それなのに、(10分前にならないとこの世の終わりのような音が鳴る)というこの事実は、入学時には知らされない。魂が抜けてしまうほどに長いオリエンテーションでも、この話はされない。あんなに長いんだからチャンスなんていくらでもあるだろうに。
するとどのようなことが起こるのか。
1年生の初めての授業の日、みんながあの地獄の音を鳴らすことになる。そしてそれがなんの音なのかわからないまま、周りをキョロキョロと確認し、教室を間違えたのか、学生証がおかしいのか、襲い来る怒涛の不安と心の中で戦ったまま、それを顔に出さず、ひたすら耐えるという、それはもう苦しい時間を過ごすことになるのだ。
私はそれを、去年経験した。
そして今年。私の時間割の中には、1年生のなかにひとり混じって受ける授業がある。最初の授業の日、案の定1年生は授業10分前より早く機械の横に並び、ひとりひとりがあの恐ろしい地獄の音を鳴らすこととなった。音が響き渡った途端、1年生たちの間に鋭い緊張が走る。「まあ、知ってましたけど?」と余裕のあるフリをしているようだが、彼女たちの心の中で葛藤と不安が渦を巻いていることは明白である。
ほんの少しの不安だって、新生活が始まってすぐの無防備な心にはとてもこたえること、私にはよく分かる。
いいだろう、私が彼女たちを救う。私が今、この教室で、英雄になるのだ。

椅子を引き、恭しく立ち上がる。
「あの、それ、10分前にならないとできないんです…!」

確かにそれは魔法の呪文であった。
私の言葉を耳にした迷える子羊たちは、一瞬にして頬にあたたかみを取り戻し、心の底からの安堵をその表情に滲ませた。
「…ありがとうございます」
質素な返事だったが、私の呪文の効果が絶大であったことはその態度から十分に分かった。
教室の空気が柔らかく変化していくのを感じながら、私は静かに座った。

その時はとくに考えていなかったのだが、大学の授業というのは基本的に大人数が集まって行われる。
その後、私は3分おきに英雄にならなくてはならなかったことは言うまでもない。
来年こそは、オリエンテーションでちゃんと説明をしてほしいと思う。


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