中根すあまの脳みその86


桜が散り始めている。
ついこの間咲き始めたと思ったのに、満開の状態なんてほんの一瞬で、気づいてみればもう若い緑がちらほらと顔を出している。
桜はひとりだと白いけれど、集まると桃色にみえるところが良いなと、毎年思う。

桜が散っているのを見ると思い出すのは、小学生の頃の記憶だ。
桜の木から散りゆく花びらを空中でキャッチするという、誰がいつどのような成り行きで始めたのかさっぱり分からない遊びに、気が狂ったように熱中していたあの日の記憶。
花びらをキャッチすることができたら願いが叶うというまじないつきで、みんな、手のひらの中の花びらを大事そうに持ち帰っていた。本と本の間に挟んで押し花にし、栞にしている子もいた。当時はそれが子どもたちの間で当たり前のように繰り広げられていたが、今思うとなんとも無邪気でロマンチックな光景である。

花びら空中キャッチは、ゲーム性が抜群だった。
想像するだけでは、そんなの簡単そう、と思うかもしれないが、これが意外と難しい。
極端に軽い花びらは、地面に着地するまでの過程であっちへゆらゆらこっちへゆらゆら、不安定な動きをする。その動きを予測して、花びらが落ちてくるであろう場所を特定するのは至難の業だ。散ってから間もない段階で花びらを受け止めようとすると大抵上手くいかない。落ち着いて、自分の元へやってくるのを待つことができた者にのみ、栄光が掴めるのだ。これは、せっかちな子どもにはなかなか難しい。
この、簡単なようで難しい、絶妙なラインの難易度が子どもたちを虜にする。
桜が散る頃になると、校庭の桜の木の下はものすごい賑わいを見せる。登校してすぐの朝休み、2時間目の後の中休み、給食の後の昼休み、そして放課後、子どもたちはストイックに花びらに狙いを定める。この執念は子どもならではだったと思う。

願いが叶う、という謎の設定にも当時の私は心惹かれた。なんで願いが叶うのか?、果たしてそれは本当なのか?、などという、疑う心を持たなかった当時だからこそ、そんな根拠のない、都合の良いまじないを信じることができた。ぼんやりと、これが嘘である可能性について考えつつも、そんなことはどうでもよかった。大切なのは心がときめくかどうかで、自分の胸が高鳴るなら、それはもう本当ということでよかった。

桜が完全に散ってしまう前に、この遊びをまたやりたいと思う。
もし、キャッチすることができたらそのときは、この怠けた日々によってすっかり質量を増した我が腹の減量を願おう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?