中根すあまの脳みその98

教室と繋がるイヤフォンから聞こえてきたある曲。
この曲を私はどこかで聞いたことがある。咄嗟にそう思った。切なさの中に希望を感じるようなメロディーに、ぼんやりしてしまっていた脳みそが叩き起こされる。
その授業はテレビドラマから時代背景を読み解くといった内容のもので、その日は1960年代につくられたドラマを取り扱っていた。話題は、ベトナム戦争反対を訴えた当時の大学生たちによる学生運動。放送ギリギリのリアルさをもって学生たちの熱狂と葛藤を描いたテレビドラマ「若者たち」について、当時を懐かしむような口調で話す先生。どうやら先ほど流れた曲は、ドラマ「若者たち」の主題歌であるザ・ブロード・サイド・フォーの「若者たち」であったらしい。
既視感ならぬ既聴感の正体は、森山直太朗の「若者たち」。2016年にカバーされたのを、私はきっと聴いたことがあったのだろう。その時にも何とも言えず心に残ったのを覚えている。

気になったので歌詞を調べてみた。
ご存じない方はぜひここで、「若者たち」の歌詞を参照していただきたい。
それを見て、私は軽く衝撃を受けた。短く簡潔で、凝った表現技法などは使っていない。それなのに、“若者”という生き物を忠実に、それでいて詩的に表現している。
ここから、まだ知識も経験も乏しい私の個人的な解釈になってしまうことをお許し願いたい。

ゆくあてなどない。あるのかもしれないが、どれがそうなのか分かっていない。その中で進んでいく道というのは、きっと最も遠く長い道であろう。この曲が表す「果てしなく遠い道」というのは、そういうことであると感じた。「歯を食いしばる」という表現も非常に秀逸だ。定まらない人生を生きていくには、常にどこかに力を入れていなければならない。「歯を食いしばる」という言葉ひとつで、それが痛いほどによく分かる。
2番に登場する「君のあの人」という言葉。これはきっと人に限ったことではなく、これまでの人生の中で失ってきたすべてのものを指しているのであろう。大好きだったあれもこれも今はもうないのに、それでも若者は行く。それはなぜか。
答えは3番にある。それは希望へと続いているからだ。
今はとてもそんな風に思えなくても、心のどこかで希望を信じている。だから若者は行く。
どんなに打ちのめされた夜でも、どんなに思いつめた夜でも、空に陽がのぼればまた歩き出す。
馬鹿みたいに、懲りずに歩き出すのだ。
この曲はとても美しいが、綺麗ごととはまた違う。正直でまっすぐな言葉を用いて、若者を単純で哀れなように描くことで、最終的に、結果的に若者を綺麗に見せているのだ。

その中で特に私が惹かれたのが「だのに」という言葉だ。
この曲の場合、「なのに」ではだめなのだ。やわらかい印象を残す「なのに」と比べて「だのに」は、「だ」に断定の意味が含まれていることもあって、きっぱりとした強い意志をその響きから感じさせる。すなわち「だのに」という言葉は、もう決まり切っている事、変えられない事に対して使うべきであると言えるだろう。
若者たちの行く道が、険しく厳しいものであることなど、人類の長い歴史の中で分かり切っていて、変わることのない事実である。それを分かっていて尚、進むことをやめない若者のどうしようもなさ。それをより的確に伝えるためにきっと「だのに」を選んだのであろう。

表現技法や言葉遊びをふんだんに用いた文章は、魅力的だ。人々に多くのときめきを与えることができる。だけど、そういった“技”を意図的に使えば、誰にだってある程度は魅力的な文が書けてしまうことも事実だろう。
この曲の歌詞は、非常にシンプルだ。それなのに人々を長い間魅了してやまない。いったいどのような勉強をして、どのような経験を積めばこんなふうに言葉を紡げるのだろう。そうなりたいと願う反面、そこに辿り着くまでの道のりの長さに眩暈がする。
だのに、私は、今日も文章を綴るのだ。


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