中根すあまの脳みその76

神奈川県の僻地で生まれ育った私は、都内を走る電車にランドセルを背負った小学生が乗ってくると、毎度感心してしまう。
シートひとりぶんにも満たないその小さな体で、こんな世知辛い社会の中を、てくてくと歩いていく彼ら。立派だなあ、チョコあげたいなあ、といつも思う。とはいえ、私よりも都会慣れしている彼らのことだから、もし私がチョコをあげたとしても、決して受け取りはしないだろう。
都会には不思議な人がたくさんいる。私がそのことを知ったのは、せいぜい高校一年生くらいだろうが、彼らはその小ささで、もうそれを知っている。尊敬の念を抱いてしまう。

しかし、都会の小学生の凄いところは、それだけではない。
彼らは、たくましく社会を生き抜きながらも、ちゃんと「子ども」であるのだ。私はそれを感じるたびに、なんというか、子どもという生き物が持つ、パワーのようなものを強く感じる。
険しい顔で携帯の画面とにらめっこをする大人に挟まれても、彼らはオセロのように、その空気に染まることはない。
隣の車両にまで届くような声量で「○○くん、いけないんだーー」と叫ぶ女の子と「いけなくないしぃ」と反抗する男の子、高速「せっせせーのよいよいよい」をする女の子二人組、一冊の漫画をあーだこーだ言いながら読む男の子の集団、静かに、それでいて純粋な目で児童書を読みふける女の子。
車内を包み込む独特の緊張感のようなものを、一切無視した、その無邪気さ。まぎれもなく子どもである。そう、彼らはちゃんと子どもなのだ。
無邪気ではいられない子どもだっているはずだ。ちっちゃな体では抱えきれないような現実と共に生きる子どもだって。
だからこそ、目の前で子どもたちが真剣な目をして「叩いてかぶってじゃんけんぽい」をしているこの光景は、守られるべきだと強く思う。

都会の風景と、無邪気な子どもとは、どうにも合わない組み合わせだ。
私立の小学校に行く選択肢など、はなから提示されないような田舎に生まれ育った私は、そのギャップのある光景に、いつまでたっても違和感を感じる。
しかし、その存在には都会のような場所には必要だろう。
実際にそう感じた出来事がある。
その日、私の心は重苦しかった。R‐1グランプリの1回戦を間近に控えている上に、今日中に提出しなけらばならない物も完成しておらず、緊張と不安、そして苛立ちが募る、そんな時だった。目的の六本木駅に到着し、あの長―いエスカレーターに乗る。周りの人の表情も心なしか暗いように見える。ふと正面を見ると、ひとりの男の子、上品な制服に身を包み紺色のランドセルを背負った小学生が、私の前に立っている。彼は漫画を読んでいた。黙々と、ページに集中して呼んでいることが背中から伝わってくる。
こんなにも夢中にさせる漫画とは一体なんだろうか。近頃流行のあの、鬼を退治する漫画だろうか。束の間私は、鬱々とした気持ちを忘れ、考える。
長いエスカレーターをおりた時、ふと見えたその漫画の表紙はなんと、『ドラえもん』だった。
2021年、六本木で小学生がドラえもんを読んでいる。その、事実に私は興奮とも、感動ともいえぬ昂った感情を覚える。そして、不思議と満ち足りた気持ちになるのだった。

様々な娯楽を知る現代の小学生にも愛される『ドラえもん』の魅力について語りたくなってしまったが、長くなりそうなので、それはまたの機会にしよう。

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