中根すあまの脳みその178

心理的な余裕がないとき、人は、嫌な性格にならざるを得ない。
人格というのは、結局、そのときの心にどれだけの余裕があるのかによって大きく左右されると私は思うのだ。
なにを隠そう私自身、自分でも引いてしまうくらいに寛容で、思いやりがあるときと、自分でも引いてしまうくらいに卑屈で、ひねくれているときがある。そしてそれは、そのときの心理状況に大きく関係していると実感している。

私の生きる日常の中で、最も心理的な余裕がない時間、それは、月に一度のネタ見せに向かう電車の中である。ここでも何度も綴った覚えがあるが、何度も綴ってしまうほどにそれは、私にとって心理的な負担が大きい用事なのである。もう5年間も続けているのだからそろそろ慣れてもいいと、自分でも思っている。
セリフを反芻しながら過ごす、ごみごみとした電車の中。
座席に座った瞬間に後悔したのだ。正面に座るカップル、文字通りイチャイチャしている。
視線を合わせずとも感ぜられる、イチャイチャとした気配。この状況に“イチャイチャ”という擬音をつけた人、天才、ノーベル賞。いや、いいよ、別にいいんだけどね。いつもなら、微笑ましい気持ちで見守るよ。でも今の私は悪魔に化かされているので、そんなことはできません。
がっちりと繋がれたその手の、ほんの少しの隙間にアロンアルファを流し込んで、満面の笑みで「お幸せに!」と声をかけ、次の駅で颯爽と降り、そのまま家に帰りたい、帰りたいよう!!!!!!!!
そんな自分に嫌気がさしつつも、これはネタ見せのせいだと言い聞かせて電車を降りる。

乗り換えた次の電車は、平日の昼過ぎの時間帯、親子連れや小学生が多い。
正面には小学生、隣には5歳くらいの男の子と、その母親。先程までの荒くれた心が、少し落ち着くのを感じた。
男の子はどうやら電車が好きなようである。乗っている電車や止まった駅について、母親と仲睦まじい様子でおしゃべりをしている。私には9歳下の妹がいるのだが、彼女が5歳くらいのとき私は、その、小さい子ども特有のパワーに押し負かされ、会話すら放棄していた。そのために、このような光景を目にするといつも、我が子だったら自分にもそれができるのかと、考え込んでしまう。そしてそれと同時に、世のすべての母親たちに敬意を表したくなる。
ネタのイメージトレーニングをしようとしても、元気な会話が両耳に流れ込んでしまう。イヤフォンをしていても尚。

100?、いやもっと多いな~、じゃあ200?、うーんもっと多い、じゃあ1億?!

どうやら何かの数字を当てているらしい。
200から1億の、飛躍の大きさに無邪気さを感じ、口角が上がる。
話の流れ的に電車に関係した数字かと、そんなことをぼんやりと考える。

これは覚えておくとなにかいいことがあるかもしれないよ、そんな前置きの後に母親の口から飛び出した正解は、365だった。
どうやら、私が別のことを考えているうちに、親子の話題は電車から、1年間の長さに変わっていたらしい。
長―い!とはしゃぐ男の子。
君が期待に満ちた声色で、1億と叫んでしまったから、少し霞んでしまったけどね。
などと、大人気ないことを思いつつも、気持ちはだいぶ和らいでいた。
だって、人生で初めて1年の長さを認識した瞬間に(勝手に)立ち会えたのだ。
きっと男の子は今後一生、この事実を忘れずに常識として抱え続けるだろう。
そう考えるとその時の会話は、何気ないもののようでいて、とてつもなく大切なものに思えた。
そして、心理的な余裕が絶望的にないこの状況でも、そのことにあたたかさを感じられる自分に少し、安心した。

電車を降りれば、つかの間の安らぎなどすぐに消える。
私は、マスクの中でひとりごとを呟き続ける変人になって、稽古場への道のりをずんずんと歩き出す。

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