中根すあまの脳みその121

私の最寄り駅の名を、人は知らない。
知らないので、いつも、そこから3駅先にある駅を、最寄り駅であると偽っている。
これは、優しい嘘である。本物の最寄り駅を正直に伝えた場合、私はその駅について一通り説明しなければならない。「どこ?」からはじまり「どんな?」「どれくらい?」様々な質問が相手から飛び出すからだ。どうやら人は、私が思っている以上に、人の最寄り駅に興味があるらしい。その質問に答えると、相手の好奇心は刺激され、さらなる質問が飛び出す。最寄り駅だけで話がだいぶ広がってしまうのだ。本来の会話の目的はそこではないのに。これは、相手にとっても私にとっても、あまりよくない。だから私は、「あー、聞いたことある」で無難に話を終わらせることができる、3駅先を最寄り駅として提示する。これは私なりの優しさなのだ。

私の最寄り駅は、無人駅である。
数年前に改装工事が施され、これでとうとう我が最寄り駅も、人に言えるくらいの規模、すなわち、ちゃんと駅員がいて、売店もあって、エスカレーターで移動ができるような、いわゆる「駅」になるのではないかと、期待に胸を高鳴らせて完成を待ったが、出来上がったのはちょっとお洒落な無人駅であった。無人駅からちょっとお洒落な無人駅になったところで、感情は微動だにしなかった。虚無であった。むしろ、まるでジブリ映画の世界観のような、恐ろしくのどかで、恐ろしく平和な改装前の姿のほうが愛おしくてよかった。
改札機も設置されていないので、正直、いくらでもごまかせる。suicaをタッチする場所はあっても、あの、ほら、ね、あの防ぐやつ。行く手を阻むあの壁みたいなやつがないので、どうにでもなってしまうのだ。人間力が試される。裸の王様が着ている、正直者にしか見えない服のように、正直者にしか見えない壁が、そこにはあるのだ。
エレベーターはあるが、エスカレーターはない。
ホームへ行くには、階段を上り、降りなければならない。エレベーターは、使うのに勇気がいる。なぜなら、誰も使わないからだ。お年寄りや、小さい子供連れ、荷物が多い人など、階段を上るのが難しい人のみが使っていて、元気な人は使っていないという、偏見というかイメージが染みついているのだ、我が身に。だから、私のような元気な若者が使おうものなら、ホームにいる人々に「あの人、エレベーター使ってるよ、偉そうに」と思われていそうで仕方がない。自意識過剰だ。分かっている。しかし、その駅を利用している人々が頑なにエレベーターを利用しようとしないのもまた、事実だ。あのエレベーターは何というか、ハードルが高い。

その駅から唯一乗ることができる電車は、扉が押しボタン式である。
駅に着いたら、自分でボタンを押さないと、扉が開かない。このシステムを知らない人がこの電車に乗り、ボタンから最も近いところに立っていたりすると、その人はボタンを押さないため、しばし空白の時間が流れたりする。仕方がないので、すみません、といって無理やりボタンを押すと、なんだか気まずい時間が流れたりもする。
そんな愛しき押しボタンであるが、例のウイルスの影響で、廃止された。ドアが自動で開くようになったのだ。それを知ったとき私はつい、いや開けられるんかい、と言ってしまった。隣の人に睨まれた。いや開けられるんかい、と思いながら電車に乗っていたが、ウイルスの影響が弱まってきたある日、押しボタンは復活した。いやもどるんかい、と言ってしまった。
できるなら、頑張ってほしいものだ。

ついこの間、新しいピカピカキラキラな電車が、無人駅に颯爽と現れた。
車体もスタイリッシュになり、座席も快適な最新式だ。感心していると、あるものに目が留まる。
いやボタンそのままなんかい。
不便で煩わしくて、あたたかくて愛おしい我が最寄り駅である。

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