見出し画像

日記

私は、アンネ・フランクと同じ誕生日です。
子供の頃から本が好きで、小中学校では、図書館貸出1.2番と言われたくらい通いました。

ジャンルは、推理、SF、ファンタジー他、地理系意外は面白いと言われる本は何でも読みたくなりました。

少し話は逸れますが、自分で書くことも好きで、中学生の時は漫画ですが2回少女漫画に応募したこともあります。
見事にかすりもしませんでした(笑)

保育園の時は、みんなを楽しませたくて自宅の画用紙で紙芝居を手作りして保育園へ持っていき、みんなの前で披露させてもらっていました。

今思えば、少し変わった子ですね(笑)
披露させてくれて保育園の先生に感謝です♡

保育園の頃は、私は3番目の一番下の子でしたから、兄も姉も小学校へ行っているので、1人で家にいる時間が多く、1人遊びが得意でした。

4歳くらいになると自分で紙芝居の他にも着せ替え人形を紙で何体も作っては、家族ごっこ、お出かけごっこ、病院ごっこなどのごっこ遊びも得意でしたね〜。(笑)

絵もあちこちに描いて、農協に出す用の米ケースにマジックペンで絵を描いてしまった時は、父親に殴られはしませんでしたが、米蔵の米びつという出口のない棚に閉じ込められたことは今でも忘れません!真っ暗で夜中に母がそっと出してくれました。
その日は、母はDVに合わなかったのか、米蔵から出してくれた母の顔は笑顔だったのを覚えています。(感謝です)

そして私も小学校と大きくなり、父親のDVの凄まじさがどんどん苦しくなり、姉と近くの橋の上で、流れる川を見ながら「どうしてこんな家に生まれてきたのかなぁ。いっそこの川から飛び降りて死んじゃおうかな。」って言ったことがあります。

姉は、「私達は、五体満足で目も口も動く手足もあるね。ありがたいね。この世の中には、普通に生まれたくても揃っていない子たちもいるね。生きたくても生きれない子もいるね。私たちは、今こうして元気に生きてるだけでも幸せじゃない。頑張ろうよ。」って言われて、私は涙をこぼしながら「そうだね。ごめん。」って言って帰りは2人で笑いながら家に帰ったことを今でも鮮明に覚えています。そう言う姉は私の誇りでした。

話を日記と本に戻します。
丁度その頃に借りた本が『アンネの日記』でした。アンネ・フランクは、追いやられた建物の中でも希望を持ち頑張っている日々が私の心に刺さりました。
「希望があるところに人生もある。希望が新しい勇気をもたらし、再び強い気持ちにしてくれる」
…私はアンネ一緒だね。と心で呟きました。

そして、誕生日も私と一緒と分かり感動して嬉しくて、とても心強くなりました。

それからは、私もアンネと同じように鍵付き日記を母にお願いして買ってもらいました。

アンネの日記の冒頭には、この日記には私の本当の心の中を正直に書きます。と言う感じのことが書かれていたので私も同じように書きました。
そして私の日記が始まりました。

日記は、小学校5年生から結婚して1人目を産んだ後まで、14年間ほぼ毎日書きました。
日記は、私の毎日のルーティンで心の友、心の温まるもののはずでした。

しかし、結婚後の日記は、読み返すと涙が溢れて悔しくて日記のページがふやふやにふやけてしまうくらいになり…希望に溢れて書いていたはずがの日記が、いつの間にか悲しく辛い日記になっていました。

これでは私の心が闇になってしまうと思い、これではいけない、子供達の目にも触れさせたくない。子供達まで闇に引きずってしまったらいけない、と即、日記を全て処分しました。

そして、その日から日記は書かないと決めました。書いて読まなければ悲しいことを蘇らすこともないから、これでいいんだ!と私の日記生活は幕を閉じました。


そして、今は、と言うと…。

1年前から感謝日記を書いています。
やはり、日記は最高!
そして、その日記は、30年前とは違う、とても心を晴れやかにしてくれる感謝日記です!

今が良ければ全て良し!と言う幸せ日記です!

そして今の私は、今は亡き姉があの時に残してくれた命です。大切にします🍀

今、自分をとりまく全てに感謝です🌸