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海外日本人コミュニティの起爆剤 mixi

上海でお友達ができない。

スマホどころかまだSNSすら存在していなかった20世紀初頭。代表的なコミュニケーションツールといえば電話とEメールと県人会のみであった。外部の日本人とほぼ接することもなく、交友関係という人間社会の基本を忘れかけていた頃、徐々に環境が進化し始め、崖っぷちギリギリでお友達という存在を思い出した。「ト、トモダチ……」まるでタイムスリップしてきた原始人である。

今回は環境の進化と共に爆発的な広がりを見せた日本人コミュニティと、そのついでに私にもお友達ができていったお話です。


三年間お友達なし

とにかくプライベートのお友達がいなかった2001年ごろ、内勤者の私にとって日本人と接する機会は、上司との会話か本社との電話とEメールのみ。プライベートでは日本料理屋の店員との、ウィットに富んだナイスなトークが精一杯であった。「食ベ放題デイイデスカ、ソノ方ガ安イー」じゃあそれでオ願イシマスー。

また、当時24歳だった私の同年代といえば留学生がほとんど。一度だけ石川県人会に参加してみたが、年齢層は一気に上がり40〜50代ばかりで、どちらかと言えば名刺交換会である。話題といえばほぼゴルフ、こちらはボーリングの話題で対抗してみたが、どう楽しそうに話しても会話は続かなかった。

これではお友達などできるはずもない。
そもそもボーリングもそんなに得意ではない。


SNSの登場で爆発的に広がった日本人コミュニティ

2004年春、在中邦人のコミュニケーションツールに革命が起こった。mixiの登場である。これまでは携帯のショートメッセージかPCのEメールなど、1対1での対話が基本であったが、オンライン上で「集う」ことができるようになった。それに加え、プロフィールを読むことで予め相手の情報を把握でき、安心してアプローチをかけることができるのだ。

こうなると上海はもとより、北京・広州など中国各都市でコミュニティがどんどん発生し、その点在していた日本人コミュニティが一気に繋がり爆発的に拡大した。もちろん、中国や上海に関わらず、自分の好きなことで好きなだけコミュニティに入ればいい。

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それ以前、私は変なWebサイトを開設していた。変な写真と変な文章で上海を紹介した、いったい誰に見せるのかも分からない、自他共に認める変なWebサイトである。

そして遂に、私のmixiプロフィールを見て声をかけてくれる人が現れた。声をかけてきた理由は「変なWebサイトをやっていたから」である。失敬だ。

その後は、海外特有の出会いと別れを繰り返し、あまり得意ではない人付き合いを考慮しながら、ほどほどな交友関係を築き上げた。


o世话ni natte orimasu。 だったご挨拶

スマホやチャットアプリ登場前の、リアルタイムコミュニケーションツールといえば、携帯電話のショートメッセージ機能である。ただし、日本語入力ができる環境になったのはスマホの登場以降になるため、それまでどのようにしていたのか、私が使用していた歴代の携帯電話と共に見ていこう。

例文:お世話になっております。


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2001年:MOTOROLA T2988
単音、モノクロ画面、中国語入力不可。
osewani natte orimasu.


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2002年:NOKIA 6100
画面がカラーになり中国語入力が可能に。
o世话ni natte orimasu。


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2004年:NOKIA 7200
カメラ搭載、着メロも本格的な和音に。
o世话ni natte orimasu。


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2006年:Sony Ericson W810c
超ミニサイズのウォークマン携帯、
カメラの質も一気に向上。
今でも自宅で保管。
o世话ni natte orimasu。


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2007年:iPhone
アメリカ版の初代iPhone、要ジェイルブレイク。
ここでついにスマホが登場し、日本語入力が可能に。
お世話になっております。

その後は、iPhone 3GS、iPhone 4S、iPhone 5S、Xperia Z1 を経てiPhone XRに至る。


現在ではFacebook、Twitter、Instagramや発言小町など、サービスによってはVPNを通す必要はあるものの、当時に比べてコミュニケーション枠が一気に広がった。

ただ、私としては人と人が直接対話をする、アナログ的な交流も日頃から重視している。やはり何事もバランスが重要。このようにバランスの取れた男日本代表は、今夜もきっと日本料理屋の店員とのウィットに富んだナイスなトークである。ただの面倒な客のひとり飯だ。

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