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旅香記Ⅱ_AUH→CDG

アブダビのトランジットでは、手荷物検査でベレー帽をかごに忘れかけたり、搭乗口でのチケット確認が一度で通らなかったりして何度か汗をかいたけれど、なんとか乗り込むことができた。
キャビンアテンダント以外のスタッフは笑顔を作ったりしないのだと知った。
アブダビ空港で唯一笑顔を向けてもらえたのは、トイレを使ったときに私のところで紙がなくなって(ティッシュを持っていたのでことなきを得たが)、後ろに並んでいた人とそばにいた清掃員にそれを伝えたときだった。清掃員は無表情で私と後ろの旅行者の訴えを聞いて(後から考えると、英語がすぐに聞き取れなかったのかもしれない)、傍らの物入れからトイレットペーパーを出してくれた。受け取った旅行者の女性はThank youと笑顔を向けてくれた。私はなんと返したか憶えていない、ことばは言わずに笑顔を返したのかもしれない。アン・ハサウェイが少し日焼けしたような、美しい人だった。



アブダビ発パリ行きの便に搭乗すると、すぐに眠った。成田で乗り込んだときのような胸騒ぎが戻ってきたのは束の間だった。
目覚めると、目の前に食事が置いてあった。配膳の時間かと思ったが、周りの席を見回すと食事が置かれているのは私の席だけだった。私があまりに長く寝ていて食事の時間を通り越したのかもしれないと思いつつ、まだ眠くて食欲もなかったので、トレーに手を伸ばさないままもうしばらく微睡んだ。
微睡みの合間にメニューを確かめると、バナナと袋入りのカットりんごと水だった。水はシート状の蓋が付いた小さなカップに入っていて、ヨーグルトかと思って持ち上げて驚いた。
何度か微睡みと目覚めを繰り返すと眠気が覚めてきたので、食べてみることにした。バナナはだいぶ黒くなってしまっていてそそられず、りんごのパックを開けた。一口食べると、種に近い部分が傷み始めているようなしゅむしゅむというやわらかい食感で、二つ目には手が伸びなかった。実家で買ってからだいぶ経ったりんごをよく食べていたが、それとも違って、腐敗に近い劣化を感じた。アブダビの近くではりんごは育たないだろうし、あまり新鮮ではないのか。
食べるのをやめて『もの食う人びと』を読み始めたが、そのうち眠った。目覚めると空腹を感じたので、迷ったがりんごをもう一切れ食べた。すると、今度はさっきのようないやなやわらかさがなくさくさくしていた。パックの中でしみ出た水分にひたっていたところは悪くなり始めているということらしい。勢いに任せてすべて食べた。このままバナナも食べようかと思ったが、蜜のような液体がしみ出ていて手が汚れそうで、やはりやめた。
そのあとは起き出したYとパリの計画を練った。出発前にもっと考えておくべきだったのだけれど、なかなかやる気を出せず、予約してあるのはホテルと国から国への移動手段とクリスマスイブのディナーだけだ。
二人で地球の歩き方をさらってほどない七時半前に、まだ暗いシャルル・ド・ゴールへ着陸した。
こんなにすぐに踏めると思っていなかった、フランスの地だ。
メンタル不全と休職という人生の誤算のもたらしたバカンスとして、二十四歳、初めてヨーロッパへ来た。

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