20年間専業主婦からスタイリストになるまで〜my story②〜
おかあさんは私のこと大切じゃないんだと感じていた子供時代
「ひとりっ子って、めっちゃ可愛がられたでしょ?」
と言われるのが嫌いでした。
なぜなら、
大切にされた記憶・可愛がられた記憶があまりなかったからです。
いえ、
今思えば、それは私の思い込みが作り出した過去の記憶なのかもしれない。
さっぱりとした性格の母だったから、全く悪気はなかったのでしょう。
でも私の心が相当傷ついたのは間違いありません。
「母子共に助からない」と言われた命。
母は結婚が遅く、
私を産んだのは39歳でした。
私の前と後に流産をしたと言っていました。
高齢で妊娠中毒症だったため、
予定日よりも45日早く、
緊急オペで1500グラムで生まれた私。
「なんとか母体は助けられても、赤ちゃんは無理でしょう。
万が一命が助かっても、障害は残るでしょう。」
そう言われていたそうです。
50年前の医療、
しかも個人クリニックで、
奇跡的に助かりました。
先生の腕も良かったのでしょう。
こうしてできた待望の一人娘。
のはずなんですが、
なぜか可愛がられた記憶はあまりないのです。
あまりのショックにもう何も話せないと思ったこと
一人っ子だった私はいつも母が話し相手。
「〇〇ちゃんがこんなんして、あんなんしてん。」
「〇〇ちゃんがこんなん言うてさ〜」
その日あったことをいつものように母に話していたら、
小学校高学年のある日突然、
「毎日毎日友達の話聞きたくないわ。
あなたの友達であって、お母さんの友達じゃないから。」
そう言われた時のショックは相当なものでした。
私には兄弟・姉妹がいないから、
お母さんしか話し相手いないのに!!
とっても、とっても、悲しかったです。
私のこと大阪で産んで、大阪で育てたやん
中三で進路を決める時期、
担任の先生から「成績からみて、〇〇高校か△△高校」
そう言われて、母に相談しました。
なぜなら、
〇〇高校は自転車や電車のルートがイメージができたけど、
△△高校は土地勘がなくてイメージできなかったのです。
今と違ってネットがない時代。
母に相談するしかありませんでした。
すると、
「お母さん関東の人だからわからないわ。」とだけ。
それで話が終わったのです。
私のこと大阪で産んでるのに!
私が小2の時からここに住んでるのに!
ここに住んでもう10年経つのに!
大事な進路を決める時なのに、
相談に乗ってくれないの???
その上、
私はあまり褒められなかったけど、
従姉妹のお姉ちゃんのことはよく褒めてたんです。
いじけてる私は、そのたびに
「私のこと可愛くないんだ。」
と、更にコンプレックスは大きくなっていったのです。
そんなコンプレックスだらけの私を救ってくれたのが
ファッションだったのです。
続く
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