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「プロを育てるためのコミュニティ」考え始め

これまでnoteを自分の知識や経験を言語化する場所としてだけ使ってきたけど、最近『クリエイティブ・ラーニング:創造社会の学びと教育』を出された井庭崇さんに誘っていただいたFacebookグループに刺激を受け、自分が考え途中のものをオープンに考えるための場としても少しずつ使っていってみようと思う。今日はその考え始め。

ここ数年、もっと時間をかけて考えを深めたいと思いつつ、なかなか手が回っていないテーマに「プロを育てる」というのがある。

この場合のプロというのは、自分が考えて、直接かかわりやすい分野ということになるので、スポーツや将棋・囲碁のようなものではなく、ビジネスや教育の現場における「プロ」と呼ばれる人たちを育てるということだ。

スポーツや将棋・囲碁のような分野と比べて、ビジネスや教育の現場における「プロ」というテーマを扱うのが難しいことのひとつは、スポーツなどのようにプロとアマのように、誰もが共通して認識できるような区別がないことだ。

「お金をもらっているものはプロ」みたいな定義を置くこともできるかもしれないけど、そういう定義をビジネスや教育の現場に当てはめてしまうと、そもそも自分が考えたいこととは離れてしまう。

先日、あるメンバーと一緒に、新しい事業を考えるという時間を持った。

そこでは、普段とは違い、自分も当事者として参加して、顧客と顧客が抱える課題を考え抜くことで、コンセプトを考えていく時間をたっぷり取った。

ある程度の顧客像が出てきたとき、一緒にやっている人がついつい「これで良し」としそうな時に、もう少し深めてみるとか、本当にそうかと考え直してみるということを繰り返した。

そのプロセスをとおして、一緒にやったメンバーに「考える」というのは、ここまでやること、というのを体験的に学んでもらうきっかけになった。

これは、エティエンヌ・ウェンガーがジーン・レイヴと共に著した『状況に埋め込まれた学習―正統的周辺参加』で考えていたことにつながることなんだろうなと思う。

文脈は違うけど、内田樹氏が『寝ながら学べる構造主義』の中で書いていた技芸の伝承の話しも、これに近い。

 技芸の伝承に際しては、「師を見るな、師が見ているものを見よ」ということが言われます。弟子が「師を見ている」限り、弟子の視座は「いまの自分」の位置を動きません。「いまの自分」を基準点にして、師の技芸を解釈し、模倣することに甘んじるならば、技芸は代が下るにつれて劣化し、変形する他ないでしょう。(現に多くの伝統技芸はそうやって堕落してゆきました。)
 それを防ぐためには、師その人や師の技芸ではなく、「師の視線」、「師の欲望」、「師の感動」に照準しなければなりません。師がその制作や技芸を通じて「実現しようとしていた当のもの」をただしく射程にとらえていれば、そして、自分の弟子にもその心像を受け渡せたなら、「いまの自分」から見てどれほど異他的なものであろうと、「原初の経験」は汚されることなく時代を生き抜くはずです。
(出所:『寝ながら学べる構造主義』44ページ)

「師を見るな、師が見ているものを見よ」ということは、いろいろなところで見聞きして、元がどこかは調べられてはいないけど、大事な指摘だと思う。

そういうのをOJTと言うんだという話しがあるかもしれないけど、OJTという言葉が実際に使われている文脈を見ると「スキルや経験が不十分なまま現場に突っ込むことを、英語表現を使うことで正当化したもの」というような悪魔の辞典的な現実に遭遇することも少なくない。

最近いろいろなところで見聞きする「コミュニティ」という言葉も、ともするとマーケティング手法の一種として、提供者側の都合の良いように解釈されているようにも見えることがある。

そういう問題意識から「プロを育てる」とか「コミュニティ」という分野を考えていきたいと思う。

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Photo by Markus Spiske on Unsplash

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