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感動しない大人たちが招いた、衆愚政治よこんにちは。


ぼーっと生きてんじゃねーよ!

というのは、NHK番組『チコちゃんに叱られる』の謳い文句だが。

私は、あの番組での使われ方 (素朴な疑問の答えを知っているか否か) 以上に
別のところに思う。

つまり、感度の鈍さ、というところだ。


それを言う私は、昔の自分こそ筆頭でそれに当てはまる人物だった為
これは昔の自分批判でもある。

感度の鈍さとは、具体的には

ありとあらゆる局面で、
「それはなぜですか?」
と理由を聞くこと。

この風潮に警鐘を鳴らしたい。

「曖昧性をなくしたい。」
「よりその人の真意に近づきたい。」

確かに、その動きはとても尊くもみえるが、
己の想像力の無さを他者の力を持って補っておきながら
もっともらしく、丁寧な雰囲気を醸し出すことができる
といういやらしさをそこに見出すことが多い。


断りを入れれば
私の場合、批判は愛の一部でもある。
警鐘を鳴らしながらも、その人が一生懸命に生きた証でもあるその営みに同時に敬意を払っている。
そして、そうした昔の自己や他者の行いを見てこそ
自己の想いも湧いてくるのだから、創造の源泉として、一方でとてもありがたい存在でもある。

批判とは、敬意を伴うものの方が心地いい。

さて話を戻すが、
感度が鈍くても多いに人は他者評価を得ることができる。
むしろ、鈍い方が、分かりやすくかえって評価を得やすい。

だから、社会全体の感度が鈍くなればなるほどに
それを取りまとめる人々は安直な考えのもと動く人物か、
思慮深かった人すら、マスの言葉の駒にならざるを得なくなる。

誰もが自由に発言できる世界にあっては
衆愚政治となる危険性を常にはらむ。
だからこそ、一人一人が織りなす社会全体の感度が高くなっていく必要があると考える。

感度の高さとは?
想像力。感性の領域のことと理解している。

感性のない世界は、しばしば二元論となり
勝った負けた
善と悪
giveとtake
など。まるでそれらがきっちりと分かれるかのような余白のない、
分かりやすく効率的ではあるが
本質から遠ざかる世界だ。

それらだけでは世界は捉えられない。
殺人を犯した人は皆ただの悪人だろうか?
どちらか一方が悪い、という話に答えなんてあるのだろうか?

人生だってそうだ。
人生とは、幸せで満ちた世界だ。
というのは負を嫌う惰性的世界。
けれど、悲観的な感情浸ってばかりいても、それだけじゃないのも人生でしょう。

そういったことは、もちろん本にも書いてあるけれど
自分で感じてみて初めて本当に気がつくもの。

私がこれを書いてるのだって
他ならぬ自分の思考を整理しながら、この表現で誰かの何か感情が弾けたら面白いと思うからだ。

みんな、自分の感度を磨くのだ。
自分のあらゆる問いについて、
そこに大抵の答えがある。

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