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「反応が欲しい」ためだけに書くのは危ない

昨日の記事で、読んだ記事に反応がついた時のうれしさや、自分が何かを読んで心を動かされた時に、それを反応として書き手に伝えることをやっていこう、ということを書きました。

これらが大切である、という考え方は変わらないのですが、自戒を込めて「反応」を得られることが持つ負の側面についても考えを整理しておこうと思います。

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毎日書いていると、「もっとたくさんの人に読んでほしい」「いろんな人の感想が聞きたい」と思うことは当然ながらあります。その気持ち自体は悪いことではないと思いますが、これが行き過ぎると「たくさんの人に読まれること」自体を目的にしてしまいそうなことがあります。

それはおそらく、思ってもいないことを書いたり、経験していないエピソードをゼロから捏造したりすることにつながります。僕自身はまだやったことはないですが、やってしまいそうになったことがないかと言われれば嘘になります。

それをやってしまっては本末転倒というか、とても虚しい気がするので踏みとどまっていますが、いつでもそちら側に滑落する可能性がある、というのは心に留めておいて損はないように思います。

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また、いわゆる「バズ」を起こした時に脳内に駆け巡る快感物質のようなものの味というのは強烈なもので、一度味わうとなかなかそこから抜け出せなくなるものです。

以前に、自分の書いた記事がnote編集部のおすすめに入ったことがあります。

そのこと自体はとてつもなく嬉しかったし、書いてよかったなという思いは変わらないのですが、その当時には普段なら経験することのないような勢いでスキや感想が押し寄せてくることに呑まれそうになってしまったことを覚えています。

スキがついているかどうか見るためにnoteのアプリを何度も開いたり、Twitterで記事をエゴサをしては新しい感想が投稿されていないか10数分おきにチェックするなど、今思えばあまり健全な状態だったとは言えないと思います。これは良くないと思い、その時の興奮を散らすためにもう一本記事まで書きました。

そして厄介なのが、こういう快感には依存性があり、多くの場合「また、アレを味わいたい」と思ってしまうことだと思います。少なくとも自分はそうでした。そしてその行き着く先には、やはり先述したような「たくさんの人に読まれること」自体を目的にしてしまうという本末転倒が待っているような気がします。「こういうのだったらnoteのおすすめに入りそう」とかね。僕も何度も考えたことがあります。

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読まれるための工夫が全て悪であるかというとそんなことはなく、自分の書いたものを読まれやすいようにチューニングするような努力はしたほうがいいとは思います。せっかくだから読まれたい、という気持ちを卑しいものとして扱ってしまうのも何か違う気がしますし。

ただ、そこに書かれているのが本当に自分が面白いと思ったものなのか、自分の心が動かされたことに基づいたものであるのか、という問い直しはしておくべきだとも強く思います。たぶん凡人たる自分には、承認欲求の沼にハマらないためにも、それを常に意識するくらいがちょうどいいのかな、と。

結局はバランスだ、といういつもの凡庸な結論に落ち着いてしまいましたが、ともあれ「読まれたい気持ち」を上手に御しながら、これからも書いていこうと思います。


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