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外国語で生きること、母語とは違う自分になること

ここ最近、仕事・プライベート問わず日本人の人と話をする(ビデオ通話などを含む)機会が立て続けにありました。1日に2~3件というのが数日続いた感じです。たまたま予定がまとまっていただけなのですが、普段話す言葉としては中国語のほうが多いので、久々に日本語をいっぱい喋ってるなあという感覚になりました(一時帰国の時でさえこんなに喋らなかったよ)。

で、日本語を話している自分を客観的に振り返って思うのですが、なんかもう途切れなくずーっと喋ってるんですね。

たまにVoicyなんかにお呼びいただいた時なんかにも思うのですが、自分の喋ったものを聞き直すと「この人、なんか強迫観念でもあるのだろうか」というくらいに言葉で間を埋めています。「あー」とか「えー」とかいうフィラーがやたらに多いのはともかく(これは本当に治したいと思っている)、人と話すとなると、やたらに喋りまくる自分がいます。

実際、強迫観念めいたものはあって、「自分がこの場を成り立たせなければ」とか、「相手に面白いと思ってもらわなければ」みたいな自意識が働いている部分がかなりあります。もちろん話すこと自体は楽しいし好きなのですが、その中でも「自分と話すことで相手に何かを得てもらいたい」「そうでなければ自分なんかと話してもらってる価値がない」という気持ちが大きいかもしれません。

これってよく言えばサービス精神なのですが、悪く言えば自分に自信がないがゆえの自意識過剰です。本来、会話なんて「あの店のラーメンがおいしかったよ」と言われれば「そうなんだね」とでも返しておけばそれで十分なはずです。

でも、何かそれだけではいけないような気がして、聞かれてもいないのに「あの店って50年前からあるらしいね」と知識を足してみたり、「あそこの店主って隣のスナックのママと不倫してるんだよな」とか、ちょっとしたオモシロを入れ込んだりする意識が働いてしまうのです。

おかげでそれなりに面白い・相手に楽しんでもらう会話をするための技術は一定程度あると自負しているのですが、そういう自分をちょっと過剰に感じたり、少し冷めた目で見ている自分もいます。お笑い芸人でもあるまいし、何を調子に乗ってるんだ、という声が頭の中に響くことがあります。もっと自然体で話せばいいじゃん、自信持てよ、とかね。

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さて、ここまで「日本語で」話す時に生じる自意識について書きました。では、中国語で話す時に関してはどうでしょうか。

中国語を使っている時には、良くも悪くもこのような意識はありません。少なくとも、日本語で話す時よりはこうした意識から自由になることができています。

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