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異文化理解にとって本当に必要なことを、「ツノつき異星人」の寓話から考える

グローバル化する現代において、「異文化への理解」が重要であるということは、ほとんど自明の前提として扱われています。

たしかに、異文化に対する知識を持ち、自分とは異なる文化的背景を持った相手が大切にしていることは何か、されてうれしいことは何なのか、あるいは絶対にしてほしくないことは何かなどを学ぼうとする姿勢が重要なのは、いうまでもないことのように思えます。

しかし、「異文化への理解」が大事だと繰り返す人が、見落としがちな視点というものが一つあります。

それは、「自分が「理解」するよう努めたからと言って、相手も同じようにしてくれるとは限らない」ということです。

ある日やってきたツノつき異星人の話

たとえばこんな架空の世界のことを考えてみます。

宇宙人の難民が、宇宙船に乗って地球に不時着してきたとしましょう。彼らはみな全身が緑色で、額に大きなツノをつけた、地球人とは似て非なる異星人です。

地球人は人道的観点からその「ツノつき異星人」を保護し、異星人たちのための特別居住区を設けました。彼らは当然ながら独自の言語・文化を持っており、地球人と最低限のコミュニケーションをするのがやっとの状態です。

そんな中で、ツノつき異星人とコミュニケーションを図ろうとしたジョンという地球人が、ある時ふと彼らのツノに触れてしまいました。すると異星人は激怒し、ジョンを光線銃で撃ち殺してしまいました。「ツノに触れる」ということは、彼らの文化においては最大のタブーだったのです。

「ジョンの悲劇」を繰り返さないように、地球人側は各国で最高の頭脳を集めた特別チームを結成し、彼らについて理解しようと努めました。

まずは彼らの言語を何年もかけて理解し、立派な辞書を作りました。それによって、言語的なコミュニケーションはひとまずできるようになりました。

その次は彼らの文化について学び、ツノつき異星人の習俗をまとめた本を作りました。地球人が異星人に接する時には、必ずその本を参照し、彼らにとってのタブーについて学んでから接するべし、ということが地球人の間で取り決められました。

その甲斐もあって、地球人が彼らを刺激してしまうことによる悲劇はほとんど起こらなくなりました。地球人はみな彼らの言葉を学び、流暢に彼らと話せるようになりました。彼らのツノに不用意に触ろうとするものは、もはやいませんでした。

彼らへの「理解」の上に訪れた悲劇

しかし、これで異星人と地球人の間には一切のわだかまりはなくなり、すてきな共存ができるようになって、めでたしめでたし——とは、なりませんでした。

なぜなら、そうした地球人の努力にも関わらず、ツノつき異星人の側は地球人側がどういう文化を持っているのかまるで学ぼうとせず、言葉さえもまったく習得しようとしなかったからです。

それどころか、彼らは地球人の嫌がるようなことを、まるでやめようとしませんでした。たとえば「これは我々にとっての愛情表現だ」といって地球人のお尻をその長い舌で舐め回そうとしてきたり、変幻自在に伸びる髪の毛で首を絞めようとしてきたり、人間で言う鼻の穴の部分から出てくる、悪臭のする粘液で相手の全身を包もうとするような行為を、彼らは繰り返しました。

それはこちらにとっては不愉快なことなのだと、地球人の側は(懸命に学んだ異星人の言葉で)何度も説明しようとしますが、ツノつき異星人たちは「我々は愛情表現としてやっているのだから、文句を言われる筋合いはない」と、意に介そうとしません。

やがて地球人の側には、「なんで俺たちだけが「理解者」をやらなくてはいけないんだ」「どうしてあいつらに合わせてやらなくちゃいけないんだ、ここは俺たちの星なのに」という不満が急速に溜まっていきました。

そしてある夜、「リメンバー・ジョン」を合言葉に団結した一部の地球人のグループが、彼らの居住区に大量の火を放ちました。

ツノつき異星人は、一人残らず焼け死んでしまいました。

地球人とツノつき異星人たちの「異文化交流」は、結局は悲劇的なもの別れに終わってしまったのです。

片思いを続ける覚悟はあるか?

「理解」とは、相手のある営みです。

自分が相手を「理解」し、受容するようになったからといって、同じだけの「理解」を相手が返してくれるという保証は、どこにもありません。

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