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ひどい雨の朝、つながっているけど違う色の空

朝食を済ませてジョギングに出る準備をしていると、とつぜん空が唸り声をあげた。遠くで雷が鳴っていたかと思うと、すぐに大粒の雨が降り始めた。

こちらでは珍しくもないスコールだが、今日はいつにもまして激しいようだった。窓を叩く雨音は、空きチャンネルの砂嵐をヘッドフォンで聞かされたようにやかましい。どこかの施設の屋上プールの水面が、狂ったように跳ね踊っているのがベランダから見えた。水捌けの悪い道路には、さっそく水溜まりができていた。

僕はジョギングに出かけていなかったことに安堵しながら、しばらく雨の降り注ぐ外を眺めていた。雨に戸惑う景色をひとしきり見回してから、空を見上げた。

空は、赤茶色を灰色で極限まで引き伸ばしたかのような色をしていた。朝焼けと、それらを覆い隠す雨雲。たちのぼる赤茶けた砂埃と、それを洗い流そうとする雨粒。そういった相反する何かどうしのせめぎ合いが、その色を作り出しているように思えた。

僕はそれを見ながら、そういえばこんな色の空は日本では見たことがないかもな、と思った。本当にそうだったかどうかはわからないが、とにかくそう感じた。

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「この空は、どこかで繋がっている」というフレーズがある。

この言葉の含意は、世界のどこにいても僕たちはひとつの同じ空の下にいるんだ、同じ景色のもとに僕らは繋がっているんだ、ということだと解釈している。「空」という普遍性のもとに、僕らが孤独ではないことを教えてくれるような、素敵なフレーズだと思う。

いっぽうで、それぞれの場所から見える空の様子が、どこでも同じとは限らない。たんに天気や気候が違うからという意味だけではなく、その場にいる者にしかわからない空の色やその見え方というのが、それぞれの場所にはあるような気がする。「雨の降りしきる空」、あるいは「抜けるような青空」といっても、そこには幾千通りの景色と、幾万通りの見え方があるはずだ。

その中には、共有しがたい色を持った空もあるだろう。ちょうど今日僕が見た、「赤茶色を灰色で極限まで引き伸ばしたかのような空の色」なんかがそれに当たるかもしれない。

同じ「空」を共有しているつもりで、そのくせ両者それぞれに見えているものがまったく違うことがあるとすれば、それは幸せなことなのだろうか。もちろん、それで両者が孤独を紛らわし、連帯できるのならそれでいいのかもしれない。

いっぽうで、俯瞰してその両者を見れば、それは滑稽で空虚な光景にも見えなくもない。ある同じものをめぐって話している2人が、実はそれぞれまったく違うものについて語っているのだとしたら、それはすれ違いコントのようなものだ。それによった生まれる「繋がり」は、どこか心もとない。

僕は「どこかで繋がっている空」という言葉の含意を正しく機能させ、これを上滑りの虚しいフレーズに貶めないためにも、自分でいろんなところに出かけて行って、それぞれの場所から見えた空の色の違いを伝えられるようになれればと思う。

幾千、幾万通りの空がある。青空も雨空も、けっしてひとつではない。ここで見ることのできた、ここだけの空の色を、そこではない場所に伝えられる人でありたい。その違いを知った上で、それでも空は一つなのであり、やはりどこかで繋がっていると信じられるようになれれば、世界はもう少し楽しくなるんじゃないか。そんな事を思う。

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しばらく外を眺めていると、いつのまにか雨は止み、くすぶったような色の空も落ち着きを取り戻していた。

やがて雲が割れ、人々を苦しめる強烈な日差しが覗いてきた。僕は、座っているだけで汗ばむような1日がまた始まるのかと憂鬱になった。さっきまでの大雨との別れが、少しだけ惜しいような気がした。

いまは全世界共通の酷暑らしい。同じような憂鬱を抱えている人も、どこかにはいるだろうか。その人に見えている空の色は、僕と同じだろうか。その人と、見えていた空の色の違いを話せる日は来るだろうか。

もし来なかったとしても、その人と一緒にそれぞれの空を愛おしみながら、世界を楽しくすることをともにがんばっていければいいな。

そう考えながら、僕は机に向かい、湿り気の残った夏の空気の中、仕事を始めた。

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