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空間の調和/思いがけない利他

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マクドナルドに行ったとき

大きな駅の近くにあるマクドナルドは大体混んでいて汚い。

それでも100円でちょっとした作業ができるので結局いつもマクドナルドへ行ってしまう。

この前行ったときもいつも通り混雑していてほとんど席は空いてなかった。
ソファー席の4人席に挟まれた2人席が空いていたのでそこへ座った。
隣の4人席には3人組が座っていて、楽しそうに話している。

コートを脱いで自分が座る反対側の椅子に荷物を置く。席に座る。
モバイルオーダーでダブルチーズバーガーをバリューセットで注文。
人が多いマクドナルドになると並ぶだけ一仕事なのでモバイルオーダーはありがたい。

隣の4人席に新しく人が来た。ここで3人と待ち合わせしていたみたいだ。
4人席が全て埋まる。
何となくもう一人来る気がする。

マクドナルドで昼食を取るときにはいつもiPadで動画を見るか電子書籍を読むかをしながら食べる。電子書籍は「ながら読書」に最適だ。手を離しても本は閉じないし、スタンドできるカバーをつけているので自立する。iPadの画面の大きさだとハンバーグが置いてあるトレーの奥に置いて読むとちょうどいい。iPhoneの小さい画面を手元に置いて下を向いて食べるより前を向いて食べる方が食べやすい。

そうして食べていると、やっぱりもう一人きた。4人席は全て埋まっている。来た人はたったまま仲間のポテトを一つつまむ。その後その人は注文のために一旦席から離れる。

こうなると私はどうすればいいのだろう。座るときから嫌な予感はしてたんだ。この席で本当にいいのか迷ったけど、その席の前でちょっと止まった手前別のところを探しにいくのもなーと思ってそこに座ってしまった。
あーあ。
注意を一度奪われるともうずっと気になってしまう。
まあ、でも私はこのままここで作業をするのだ。
すでにここに座ったのだから。

注文から帰ってくるとその人はどこからか椅子を持ってきて、机の角に向かって座った。斜めに座るから私の視界に結構入ってきている。楽しそうに話している。
気にしていないふりをして私は電子書籍を読む。ポテトを食べる。

斜めに座っているから明らかに食べにくそう。というか座りづらそう。
というか視界にめっちゃ入ってる。
気にしてないからいいんだけどね。気にしてないから。
なんかまだ人が来る気がしている。

粛々と食べていると向かいの席に座っていた人が帰り席が空いた。
今座っている席と同じ二人席。
こうなるとなんだか気持ち悪い。

4人席に5人。隣に私。向かいは空席。
なんだか気持ち悪い。

iPadをとじ、一旦マスクをして向かいの席に移った。
どうぞ的なアイコンタクトをしつつ、荷物を持って移動。
なんだか一安心。とても穏やかな気持ちになる。万事解決。

少しするとやっぱりもう一人きた。
4人席と2人席に6人組。向かいに私。

移動したあと、なんだか今の自分の行動はなんだったのかなんとなく考えていた。
なんで私は席を移動したのか。

席を譲ってあげようと思ったから?
隣でガヤガヤしているのが嫌だったから?

あの気持ち悪さはなんだったのだろうか。

少なくとも隣の人たちに移動してほしいと言われたわけではないし、無言で圧をかけられたわけでもない。
だから動いたのは私の判断。

はみ出してきた1人は気になるけれど別に邪魔で作業ができなくなるという感じでもなかった。

5人の方も不便そうにしているわけでもない。
つつがなく盛り上がっている。
私が移動しなくてもそこまで不便はなかったろう(結局もう1人きたんだけどね)。





なぜ移動したの?


気持ち悪かったから。

なにが?

隣から堰き止めきれないダムの水に対な圧を感じたし、前には押し出された
先の逃げ場がある。
もはや自分がダムになって水を堰き止めてるみたいだ。

押し出されて移動した?

そういうわけでもない。
移動するべきだと思ったから移動したんだ。
移動すべき?
収まりが悪いというか。移動した方が収まりがよくて安心する。

気持ち悪いのは収まりが悪いってこと?

そうだね。その空間の調和が整う感じ。





空間の調和

「空間の調和」が整う。マクドナルドの経験で出てきた言葉。ふと体が動いてしまう。それをやらないと気持ちが悪い。こういう時は、なんだか「調和」が整っていないとという感覚があるんじゃないか。

「利己/利他」というより「空間の調和」

「人に優しくすること」、「怒ること」、「嫌だと思うこと」があるときそれを「自己/利他」という枠組みで考えることがある。
あの人にあれをやってあげたのは、あの人のためだと思っていたけれど、本当は自分の承認欲求が理由だったのかもしれない。
そう思う。
でも「利己・利他」の二項対立で考えてしまうとその行動が「利己」なのか、「利他」なのか、どっちなんだい!というルーレットが延々と回り続けることになる。
結局利他なのか利己なのか分からないから。
人によっては利他的行動を自分勝手に押し付けちゃったなと後悔するだろうし、利他だと思ってやった行動を相手から独りよがりな押し付けだと言われることもある。
「利己/利他」の二項対立は多分、行動の理由(動機)ではなくて、行動の解釈に使われる物なんだと思う。
だから解釈する人によって、する時によって変わっていく。

ただ、利己とか利他とか考えている以前に、なんだか「気持ち悪い感じ」があって、気がつくと体が動いてしまっている、という感覚がある。
その「気持ち悪さ」には「空間の不調和」があるんじゃないだろうか。
自然じゃない感じ。傾き。
シーソーに一人で乗っているのに自分が乗っている方が上になって傾いているような。
そうなっていると次の瞬間に自分が乗っている方が下がることを期待する。
下がると安心する。
同じように、空間の傾いたバランスが自分を動かすことで調和する。
あのマクドナルドで私が移動したのは、そんな感覚だったように思う。
「空間の不調和」の気持ち悪さに思わず押されて移動する。
物が落ちていると気持ち悪い。だから拾う。
そんな感覚。

これは受動的な行動なんだろうか。
でも動いたのは私の判断だ。
だから能動的であったともいえる。
ただ、「やりたかった」というより「やらざるをえなかった」という感もある。

正直言ってどう考えればいいのかよく分からない。

だけれども少し思うことが一つ。

私が感じた「空間の調和」は“私が考えた”空間の調和であるということ。
「空間が調和した状態」は私の頭の中で想像された調和であって、不調和を起こしたのは私の頭のなかの「空間の調和」だ。
だから人によってその「調和が取れた状態」は異なってくるのだろう。
どんな世界を想像しているのか、世界をどう認識しているのか。そういうことによって何に気持ち悪さを感じるかが決まってくる。
今回は席に人が収まっていないという不調和だったのかもしれない。
私が移動したことで調和が保たれる。

「利他」と呼ばれる行動ももしかしたら相手のためというよりも不調和に突き動かされた行動なのかもしれない。
私の頭の中にある小宇宙の乱れによって突き動かされ、行為する。
しかし、それは「利己的」であるわけではない。
私の小宇宙の問題ではあるけれど、そこは私の利益が最大であれば調和が保たれる世界ではない。私と他者の含まれた空間。
そこで起こる「思いがけない利他」

あともう一つ。

私たちは自分が考える「調和の取れた空間」がどんな空間なのかわかっているのだろうか。大抵の人は調和が大きく崩れることはなかなかない。
ただ、その空間は崩れてみないとどんな空間だったか分からない空間だ。
私は少なくとも自分の空間がどんな空間なのかそこまで把握できていない。
どんな時に調和が崩れるのか。
もしかしたら今既に崩れていて、不調和に鈍感になっているから気がついていないだけかもしれない。
この空間はどのように作られてきたのだろうか。
なぜこんな形をしているのだろうか。
「自分を知る」とは「空間を知る」ことなのかも。

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