黙示録の秘密
「全体性としての自己は記述不可能である」(ユング)
三つの私
人間には三つの「私」が存在します。一番表層に位置するのは,社会的自我です。これは,人間がこの世界で生きるために形成した後天的な「私」です。社会的自我の内奥に位置するのは,個人的自我です。これは,生まれ持った各自の性格であり,長い転生輪廻の過程で形成された魂の傾向性です。最内奥に位置するのは,本来的自己です。本来的自己とは,神の似姿としての自己であり,唯一無二の独自性を持つ霊的核です。
無意識の素材
人間がこの世に生まれた目的は,本来的自己に覚醒し,神から授かった使命を遂行することです。では,どうすれば本来的自己に目覚められるのでしょうか?本来的自己を実現するためには,無意識に抑圧した悪(影)と和解する必要があります。簡単に申し上げれば,人間は無意識と対峙する必要があるのです。無意識は「無」意識ですから,私たちが知らない世界です。無意識の世界では,意識によって獲得されたイメージが用いられます(心の中には意識を通した概念しか素材がないからです)。そして,無意識に抑圧した悪,すなわち,無意識の反神性は,客体として外部に投影されます。
黙示録は,未来を予言した書物ではありません。黙示録とは,本来的自己に覚醒する経緯を記述した書です。己の善を神の御座に,己の悪をこの世に投影して,本来的自己の誕生を記録した書です。
集合的無意識のイメージ
黙示録に登場するイメージを,深層心理学的に解読してみましょう。「地の底から立ち上がる獣」とは,無意識に抑圧された影(シャドー)です。「ゴグとマゴグという敵」は,未だ内にひそむ無意識の悪です。「もはや海もない」という文言は,無意識の意識化を表現しています。「あらゆる敵が神を賛美する」光景は,人類が一つになった世界,すなわち,全人類教会主義の実現を意味しています。「恐ろしいキリストの姿」は,合理化されていない神の姿です。ちなみに,合理化された神とは愛の神であり,合理化されていない神とは怒りの神です。生ける神とは,愛と正義(怒り)の両側面を有しているのです。
このように,黙示録の内容は,著者の深層心理学的体験を世界に仮託して描かれているのです。
「神からただ“善なるもの”,すなわち私たちに“善”として現われるもののみが期待されるとすれば,そもそも神への恐れはどうなるのか?・・・あらゆる悪の最も強力な根の一つは無意識性である」(ユング)
黙示録の構成
では,実際に,黙示録の流れを概観してみましょう。
1-1から1-20までは序曲です。序曲の中に登場する「怒りと憎悪のキリスト」は,キリスト教によって抑圧されたキリストの姿を表しています。
2-1から3-22までは意識界の論述です。七つの教会への怒りは,意識的自我の悔い改めと解釈すべきでしょう。
4-1から9-21までは個人的無意識の告白です。無意識は,天から地への怒りという形で意識化されています。天の描写(神と天使の世界)と地の描写(地上のローマ帝国)が交互に登場する所以です。七つの封印も七つのラッパも,抑圧された悪の意識化と言えるでしょう。
10-1から13-18は黙示録の転換点です。この部分は,心のさらなる深み,心理学的深海に突入する前段階です。神の奥義の開示とは,最内奥に存する本来的自己の顕現です。一人の女とは,人間の内なるアニマ(女性性)です。666とは失敗の象徴であり,罪の本陣が心の深みに潜んでいる暗号です。
14-1から20-15は集合的無意識の世界です。この世界において,永遠の福音が予示され,救世主である神のコトバが出陣します。そして,悪魔(無意識性)との激戦の末,小羊との婚姻が成就します。ちなみに,小羊との婚姻とは,キリストとの合一であり,己の意識的善と無意識的悪が融合した姿です。
最後の21-1から22-21は本来的自己の誕生,神の似姿である人格の覚醒です。「新しい天と新しい地」とは,心の統合を意味しています。「新しいエルサレム」とは人格の王国であり,「命の水の泉」とは人間が永遠の命に覚醒した象徴です。
このように,まるで古井戸の中へ入っていくように,人間が心の内奥に沈潜し,最終的に本来的自己を発見する過程。これが,黙示録の内容です。
終わりに
黙示録とは,自己の覚醒を記述した書です。稀有な自己顕現の書です。人間の無意識性を扱っていますから,黙示録を理解するためには,黙示録の著者と同じ体験をした者が深層心理学的に解釈する必要があります。
黙示録と同じように,人間の無意識性を扱い,本来的自己の覚醒を論述した書物が三つあります。第一にゲーテの「ファウスト」,第二にニーチェの「ツァラトゥストラ」,第三にユングの「赤の書」です。これらを読み比べて,心の深みを探究してみてはいかがでしょうか?
参考書籍
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