神を捨てる
私は初め,生にこだわった。この世の快楽,この世の栄光,これが私の目的だった。私のエピクロス主義時代である。
私は次に,死にこだわった。己の天命,己の義務,これが私の最大関心事となった。私のストア主義時代である。
私は次に,生と死を超えた。神への信仰,神への祈り,これが私の支えとなった。私のキリスト教時代である。
私は最後に,生も死も捨てた。キリストと共に生き,キリストに服従すること。ただそれだけを願うようになった。私のキリスト者時代である。
生にこだわる私は,神を伝統の中で見ていた。死にこだわる私は,神を己の目で見ていた。生死を超越した私は,神を神の目で見ていた。しかし,生死を忘却した私は,神をキリストの目で見る。つまり,神なき所に神を見,キリストと共に十字架の道を歩む。
今までの生涯を回顧して思う。あらゆるものを捨ててこそ,真の神を知ることができると。世界(所有物)を捨て,己を捨て,(実体としての)神を捨てる時,イエス・キリストの霊はその人に降るのだと思う。
「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく,キリストが私の内に生きておられるのです。いま私が,この世に生きているのは,私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によるのです」(ガラテヤ書2-20)
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