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すべての宗教を超越した神~シェリング哲学について~

「自己を真に自由な哲学の出発点に置かんとする者は,神をすら放棄せねばならない。・・・まず一切を捨て去ったもの,この者のみが彼自身の根拠に達し,生の全き深淵を認識する。ダンテが地獄の門に記されているとしたものは,異なる意味において,哲学に入る門の前にも記さねばならない。<汝らここに入る者は一切の望みを捨てよ>」(シェリング「諸世界時代」)
 


はじめに


 あまりにも偉大な人間は,長い間誤解されるものです。政治家としては,クロムウェルがそうでした。宗教家としては,オリゲネスがそうでした。哲学者としては,シェリングがそうでした。フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・シェリング(1775~1854)は,実に百年間,世間から忘れ去られたのです。シェリングは,カント・ヘーゲル以上の哲学者でした。人類の未来を予見した大思想家でした。しかし,あまりにも偉大であるが故に,卑小な民衆と知識人には理解できなかったのです。今回は,シェリング哲学について。

シェリングの積極哲学


近代哲学の突破


 一般的に,「デカルト以来の近代哲学はヘーゲルにおいて完成した」と言われています。つまり,哲学史において,最大の哲学者はヘーゲルなのです。では,西洋哲学の総決算ともいえるヘーゲル哲学とシェリング哲学の違いは何でしょうか?
 ヘーゲルは,哲学的思考を神(絶対精神)から始めました。そして,絶対精神の展開として,万象万物を説明しました。その結果として,何が帰結されたか?それは,必然的世界の成立です。ヘーゲル哲学において,すべてを決定するのは神であり,人間はその操り人形でしかなかったのです。シェリングがいみじくも喝破したように,ヘーゲル哲学は「自由の墓場」でした(シェリングとヘーゲルは同世代の人間)。
 必然的世界における人間関係は,暴力的です。それを証明するかのように,ヘーゲルは暴力の権化ナポレオンを賞賛し(「歴史哲学」),ヘーゲル哲学の継承者マルクスは暴力を正当化しました(「共産党宣言」)。愛は,自由な人間を前提としています。善をも悪をも為すことができ,赦すことも憎むこともできるからこそ,能動的行為である愛が成立し得るのです。いずれにせよ,人間的自由は,すべての善きものの前提なのです。
 シェリングは,ヘーゲルの限界を突破しようとしました。哲学的思考を神から始めるから,人間の自由が毀損されたのです。哲学的思考は自由から,神以前の神から,東洋的に言えば「絶対的な無」から始めねばなりません(シェリングは,このような根源的自由を無底と呼びました)。そして,自由の展開として万象万物を説明する時,初めて人間の自由が担保されるのです。
 神以前の神である無底は,「完全に自由な精神,意志そのもの」でなければなりません。

「私はあるであろう者である(I will be that I will be.)」

つまり,このような人であるか,別なような人であるかは,単に私の意志に依存している。そういう存在でなければなりません。

自由の展開


 シェリングの企図,それは,先立つ一切の形而上学に対抗して,完全に新しい一つの形而上学を自由の上に構築することでした。簡潔に申し上げれば,新しい神観を確立することでした。
 神は自由です,いや,自由は神です。そして,自由そのものである神から,人間は創られました。自由な神が創造した被造物ですから,人間もまた自由でなければなりません。

「神は,それに似たものにおいてのみ,すなわち,自己自身に基づいて行為する自由な存在者においてのみ,自らに対して顕わになることができる」

 自由を賦与された人間は,善をも悪をも為すことができます。つまり,無限に向上することも無限に堕落することも,人間の自由意志に依存しているのです。神は,人間が自由意志を発揮して,神の子に至ることを望まれました。しかし人間は,与えられた自由を濫用し,神に背いて罪を犯した。ここに,人間の堕落と世界の邪悪化が生じました。では,どうすれば,罪深き人間は神の似姿に復帰できるのでしょうか?

「神は,人間が再び神へと戻るために,人間とならねばならない。神に対する根底の関係が打ち立てられることによって,初めて救済の可能性が再び与えられるのである」(「人間的自由の本質」)

 人格としての人間が癒されるためには,神が人格とならねばなりません。神は受肉し,人間となり,人間の代わりに罪を解決しなければなりません。神ご自身が世に降り,苦悩し,人間の代わりに罰せられねばなりません。ここに,イエス・キリストの受肉と生涯の意味があります。神は自由です,自由であるが故に愛です。そして,神は人を愛するが故に苦悩します。あたかも,親が子のために苦悩するように。キリストの生涯と十字架は,神の苦悩の具体的表現なのです。

「人間としての苦悩を経験する神という概念がなければ,歴史全体は不可解なものにとどまる」(「哲学と宗教」)

神以前の神


 シェリング哲学の本質は,伝統的宗教の神を突破して,生ける真の神を求めたことです。特定の名前で呼ぶことができる神は,本当の神ではありません。なぜなら,名前をつけることにより,神を限定してしまうからです。真の神は,名もなき神,一種の深淵でなければなりません。先程も申し上げましたように,シェリングは真の神を「das Unvordenkliche(神に先立つ超神的な存在)」,あるいは「絶対的プリウス(原初)」,もしくは「無底」と呼びました。東洋的な言い方をすれば,絶対的無です。
 しかし,もし神が完全な無ならば,創造が行われないことになります。神が何かを創造するためには,被造物に向いた有の方面がなければなりません。すなわち,真の神には,絶対無と共に絶対有が存在しなければならないのです。この絶対有のことを,シェリングは「永遠の意志」と呼びました。
 聖書において,父なる神と子なる神が一体であるように,「純粋な根源存在である絶対無」と「永遠の意志である絶対有」は一体です。聖書において,父は子を通して創造したように,無底は「無底の底」を足場に万物を創造しました。キリストは永遠の原像です。根源存在の生の展開における必然的な一契機なのです。

哲学的宗教


「天から送られた高次の精神は,我々のもとに宗教を樹立しなければならず,宗教は人類の最後にして最大の作品となるだろう」

 シェリングは後年,哲学的宗教なるものを唱えました。哲学的宗教とは,現実に存在する宗教ではありません。人類が実現すべき宗教です。哲学的宗教とは,全人類が崇拝すべき宗教であり,すべての時間を通して存在する宗教です。キーポイントは,「キリストの精神」です。キリストの精神(聖霊)こそ,すべての宗教を統合する原理なのです。キリスト教は,キリストの精神が歴史的に展開した教えの総体です。異教は,キリストの精神の萌芽です。いずれにせよ,キリストの霊こそ,すべての宗教の中核なのです。

「異教の中にも暗黙的に,キリストとしてではないけれども,既にキリストが存在している」(「啓示の哲学」)

 哲学的宗教とは,バラバラな人類を再び一つにする普遍的宗教です。そして,世界史は,三つの時代に区分されます。第一に,神話的宗教の時代です。神話(ギリシャ神話・エジプト神話・インド神話など)が人間の心を支配し,各民族に分裂した時代です。第二に,準精神的宗教の時代です。高度な教え(仏教・キリスト教・イスラム教など)が人間の心を支配し,各文化圏に分裂した時代です。最後に,精神的宗教の時代です。統合的宗教が人間の心を支配し,全人類が一つになる時代です。私たちは今,精神的宗教へ向かう途上にいるのです。

シェリングの前世


イスラム世界の神秘主義哲学者


 シェリングの前世は,イスラム最大の哲学者であるイブン・アラビーです。


イブン・アラビー


イブン・アラビーは敬虔なイスラム教徒でしたが,アラーを超越した神以前の神を求めました。イスラムの神よりもさらに根源的な何か,イブン・アラビーのいう「存在」です(「叡智の台座」)。またの名を「真理(ハック)」と呼びました。イスラム教は,排他的一神教です。しかし本当の宗教は,包括的一神教でなければなりません。アラーは,一と多の対立としての一であり,何がしか限定された神でした。しかしハックは,対立という概念が意味をなさなくなる一であり,神とすら呼べない原初的単純性です。イブン・アラビーの存在は,シェリングの無底に比肩できます。
 イブン・アラビーは,心の段階に応じて,人間を三つに分類しました。第一が「知者」です。知者とは,神の視点からものを見,神の一切の自己顕現が彼の視界に収まる人です。第二が「知者たらざる人」です。この人は,絶対者を絶対者の中に絶対者の視点から見るが,その人の視線によって真実を歪めてしまう人です。第三に「無知な者」です。彼は,たまたま有した特定の宗教に特有の形態で,神を敬い拝むにすぎず,他の崇拝形態の一切を否定する人です。すべての宗教を統合的に把握しようとするイブン・アラビーの態度は,哲学的宗教を求めたシェリングを彷彿とさせます。

「ある特定の宗教に絡めとられぬよう,他の宗教を不信仰として拒まぬように気をつけよ。もしそうするなら,大きな恵みをもらい損ねるだろう。・・・あらゆる宗教的信仰形態にとっての第一質料となるよう努めよ。他の宗教を排した上で一つの特定の宗教が限定するものを超えて,神はより広く,より大きい」

古代ギリシャの宗教改革者


 シェリングの前々世は,古代ギリシャの哲学者クセノパネスです。


クセノパネス


ホメロスやヘシオドスの神話を批判し,当時の多神教を非難しました。オリンポス十二神に対するクセノパネスの批判は,主に二点ありました。第一に,ギリシャの神々が不道徳であること。クセノパネスは,神々が人間のように盗み,姦淫し,騙し合うことが許せなかったのです。第二に,ギリシャ宗教が擬人的であること。クセノパネスはこう非難しました。「馬は馬に似た神を作る。牛は牛に似た神を作る。同じように,人間は人間に似た神を作ったにすぎない」と。
 クセノパネスは,ギリシャ宗教を批判すると同時に,新しい神を提唱しました。それは,一なるもの,不動の唯一神です。そして,徹頭徹尾「一なるもの」を求めたクセノパネスは,一元論を唱道したエレア派の創始者となりました。クセノパネスの「一なるもの」という観念がプラトンを感化し,ギリシャ的唯一神である「善のイデア」に結実したことは特筆すべきでしょう。

「ただこの世界全体に目を向けて,一なるものは神である」

この魂の使命


 クセノパネス→イブン・アラビー→シェリングと転生した魂の使命は,新しい時代の宗教を示唆することにありました。神が人間を創ると同時に,人間が神を作ります。宗教は,時代とともに進化せねばなりません。すなわち,世界史の進行と共に,神観も進歩発展せねばならないのです。この魂は,いつの時代も,普遍的宗教を求め,一なる神を希求し,人類の宗教的知性を前進させるために生まれ変わっているのです。

「近代の人道的な神は,自己の内面を掘り下げる力を失った人間が,自然に作り上げた像である」

「聖なる精神(聖霊)のみが教師である」
 

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