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贖罪の信仰


「すべての人は,罪を犯したので,神からの栄誉を受けることができず,ただ神の恵みにより,キリスト・イエスの贖いのゆえに,価なしに義とされるのです」(ローマ書3-23・24)
 


聖書の中心


 新約聖書の中心的真理とは,一体何なのでしょうか?最後の審判でしょうか?いいえ,最後の審判はユダヤ教にもあります。隣人愛でしょうか?いいえ,愛(慈悲)の推奨は仏教にもあります。人間の聖化でしょうか?いいえ,禁欲的生活はストア主義にもあります。教会の概念でしょうか?いいえ,強固な教会組織はイスラム教にもあります。
 福音の中心的真理は,イエス・キリストの十字架です。十字架の贖罪です。「イエス・キリストは,人類の罪を贖うため,私たちの代わりに犠牲になった」という歴史的事実です。

十字架の贖罪


福音と浄土宗


 贖罪とは,罪を水に流すことではありません。人間の悪行を「水に流す」のは,浄土宗の神です。阿弥陀仏は慈悲の根源ですから,慈母のように「赦す,赦す,すべての罪を赦す」と言います。しかし,私は思います。もし全能者が人間の犯した罪を許容してしまえば,宇宙の法則はどうなってしまうのでしょうか?宇宙の主宰者である神は,どのようにして秩序を保つのでしょうか?
 聖書の神は,愛と正義の神です。この「神の正義」が分からない限り,十字架の贖罪は分かりません。神は人間を愛したい。しかし,正義の故に,犯した罪を許容することはできない。人間は神に愛されたい。しかし,犯した罪の故に,神に愛される資格がない。こうした愛と正義の葛藤が,「罪を引き受ける神の子の犠牲」を要請するのです。

親子の譬え


 神と人の関係を,親子の関係として考えてみましょう。親はわが子を愛している。正しく成長して欲しいと願った。しかし子は,悪の道に走り,親心を踏みにじって罪に罪を重ねた。それでも親は,わが子を愛し続け,遂に疲弊して亡くなった。その時,子はどうするでしょうか?親の深い愛に心を打たれ,感謝の涙にむせび泣き,生き方を悔い改めるのではないでしょうか?つまり,親の犠牲が,子の人生を変えたのです。
 非行に走った子と犠牲になった親は,罪を犯す人間と十字架につけられた神の子の象徴です。神は,その独り子を捧げるほどに人間を愛されました。故に人間は,キリストの十字架に神の犠牲をみるのです。贖罪の信仰は,頭では分かりません。罪の自覚をもってキリストの十字架を仰ぎみる時,「良心の体験」としてしみじみと実感されるのです。

世界平和の秘策


私の思想


 私はSNSを通じ,自分の意見を呈示しています。キリスト教の偽善を攻撃したこともあります。転生輪廻を説いたこともあります。日本人の使命に言及したこともあります。国家安全保障や経済政策について触れたこともあります。無宗教主義と称して,新しい宗教意識について語ったこともあります。しかし,これらの意見は,私のオピニオンの枝葉末節に過ぎません。私のオピニオンの中心は,キリストの贖罪です。十字架の贖罪に比すれば,私のブログやyoutubeや書籍の発言など「駄文の束」に過ぎません。逆に言えば,十字架の信仰さえ伝われば,私の本懐は果たされるのであります。

人類の調和


 私の思想や意見は,十字架の贖罪に始まり,十字架の贖罪に終わります。すべてはキリストの十字架にかかっているのです。例えば,宗教的対立の解消について。ある人はこう考えるかもしれません。「それぞれの宗教が自分の神に拘るから,宗教的対立と政治的闘争が生まれるのだ。各宗教の神々を超越する神を信じれば,宗教的対立は解消するに違いない」と。しかし,こうした一般的・抽象的な神信仰(理神論)は,必ずや悲劇的な結末を迎えます。一般的な神は人間の暴力を正当化する。これが歴史的事実です。啓蒙主義とフランス革命がいい例です。
 なぜでしょうか?なぜ一般的な神観念ではダメなのでしょうか?なぜなら,宗教的対立の根本は,神的観念の相違ではないからです。人類の闘争の根本原因は,宗教的教義の問題ではありません。罪の問題です。己の内に棲む罪が,人をして異質な人間を憎悪・殺戮せしめるのです。世界平和の秘訣は,宗教の理論的統一ではありません。世界平和の秘訣は,罪の赦免による人間の新生です。すなわち,イエス・キリストの十字架こそ,人類的調和・一致の特効薬なのであります。

私の使命


 私の使命は,自分の思想を構築することでも,私的な主義主張を貫徹することでも,宗教的な偉業を為すことでもありません。私の使命は,キリストの十字架を伝えることです。古代においてパウロが唱えたように,中世においてルターが唱えたように,近代において内村鑑三が唱えたように,贖罪の信仰を伝えることです。それぞれの時代には,それぞれの神話(価値意識)があります。私は,現代という神話的世界観の中で,キリストの福音を復興したいと考えています。
 
「その後,私は見た。あらゆる国民・部族・民族・国語のうちから,誰にも数えきれぬほどの大勢の群衆が,白い衣を着,しゅろの枝を手に持って,御座と小羊との前に立っていた。彼らは,大声で叫んで言った。『救いは,御座にある私たちの神にあり,小羊にある』と」(黙示録7-9・10)
 

参考書籍です。

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