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真理は一つ!

意識の四大機能


 分析心理学を創始したユングによりますと,人間の意識には四つの機能があるそうです。それは,感覚・思考・感情・直観です。これら四つの機能の内,何を主に用いるかによって,人間の性格は四つに分類されます(ユング「タイプ論」)。

感覚型


 第一に,感覚型です。感覚型とは,視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚などの外部的刺激を重視するタイプです。このタイプは,未来への不安を余り抱かず,「今を生きる」人間と言えるでしょう。さしずめ,風流な趣味人,根っからのリアリストといったところでしょうか。

思考型


 第二に,思考型です。思考型とは,沈思黙考し,自分の分析を信じるタイプです。このタイプは,基本的に思慮深く,データや過去の事象を重視する傾向があります。ユングによると,冷徹な事業家や科学者に多いとされています。

感情型


 第三に,感情型です。感情型とは,物事の価値(好き・嫌い)を重視し,フィーリングを大切にするタイプです。このタイプは,他者と和することに喜びを感じ,相手の複雑な感情をキャッチする傾向があります。

直観型


 最後に,直観型です。直観型とは,物事の可能性を見つけ,それに没頭するタイプです。夢やヴィジョンなど直観的イメージを重視し,「未来を生きる」人間と言えるでしょう。このタイプが道徳的に特化すれば,文明の将来を卜する預言者となります。

性格類型の特徴


 これら四つのタイプには,それぞれの特性があります。思考型と感情型は合理的タイプであり,感覚型と直観型は非合理的タイプです。なぜなら,前者は他者に理解され易く,後者は理解を拒絶するからです。また,思考型と感情型は対立する関係にあり,感覚型と直観型も対立する関係にあります。なぜなら,思考型は知性を重視し,感情型はフィーリングを重視するからです。また,感覚型は目に見えるものを重視し,直観型は目に見えないものを重視するからです。

歴史の四大聖人


 世界史には,人類に多大な感化を及ぼした四大聖人がいます。イエス・釈迦・ソクラテス・孔子です。彼らはみな偉大ですが,それぞれ違った角度から真理にアプローチしました。

孔子


 儒教の孔子は,神も来世も説かず,ただ現実社会のあり方を問題にしました。つまり,きわめて実践的な教えを説いたのです。先ほどの性格類型でいえば,感覚型の方面から真理を探究したといえるでしょう。神秘主義に陥らず,目の前の現実を重視したという意味で,臨済や道元などの禅宗も同じ部類に属します。

ソクラテス


 哲学者のソクラテスは,特定の思想内容を説くのではなく,「思考そのもの」を重視しました。立ち止まって考えること,思考停止に陥らないこと,自分の無知を自覚すること。ソクラテスは.思考型の方面から真理を明らかにしたといえるでしょう。ある一定の知識や概念に拘泥せず,それらを生み出した思考自体を重視したという意味で,ドイツ観念論の創始者カントも同じ部類に属します。

ナザレのイエス


 キリスト教の祖イエスは,「神への信仰」と「隣人への愛」を説きました。信仰もまた神への愛と解釈すれば,イエスは「愛そのもの」を説いたといえるでしょう。愛とは,他者のために労苦し,他者と共に涙し,他者と共に喜ぶことです。そういう意味において,イエスは,感情型の方面から真理に近づいたといえます。阿弥陀仏の救いを罪人に説いた法然や親鸞もまた,愛の使徒ならぬ慈悲の使徒だったといえるでしょう。

釈迦


 仏教の創始者である釈迦は,反省によって内になる自己を探究し,無の境地に達することを重視しました。この無の悟りにおいて,人間は様々な元型的ヴィジョンを見ることになります。心の内へ内へ沈潜し,集合的無意識のイメージを通して,悟道の境地に達すること。釈迦は明らかに,直観的方面から真理を追究したといえるでしょう。瞑想による深層心理的イメージを重視したという意味で,旧約のエゼキエルや黙示録のヨハネも同じ部類に属します。

真理の多様性


 全知全能の神は,人間に真理を啓示される際,ご自身の僕たちによって様々な入口を用意されました。孔子によって示された感覚の道,ソクラテスによって示された思考の道,イエスによって示された感情の道,釈迦によって示された直観の道。そして,どの道を辿ろうとも,最後には同じ真理に行き着くのであります。

「峰登る 麓の道は違えども 同じ高嶺の 月を見るかな」

神のパラダイム変化


 真理を一つの山に譬えれば,どの入口から入るのも自由ですし,どの山道を旅するのも自由です。しかし,登れば登るほど,真理(神)は姿形を変えていきます。

善なる神


 神はまず,「善」として顕現します。旅の初心者にとりまして,伝統的な神こそ真理であり,善悪を判断する「掟の倫理」こそ生き方の基準なのです。伝統的な既成宗教に何の疑問も持たないという意味で,彼の信仰は集団的といえるでしょう。

愛の神


 神は次に,「光」として顕現します。人間は,回心を経ることによって,神と個人的な関係に入るのです。彼はもはや,律法に頓着しません。なぜなら,善悪を超えた神の恵みを知るからです。人間の罪を赦す「贖いの倫理」。人間は,神との対面を通して,裁く次元から赦す次元に移行したといえるでしょう。

生ける神


 神は次に,「闇」として顕現します。神は光です。しかし,神なる光源に近づけば近づくほど,あまりの眩しさに闇となります。人間が「神」と名づけられる神は,真の神ではありません。真の神は,人間が知らない方,決して名づけられない方,ヤコブ・ベーメのいう「神が生まれる前の神」です。その方に接する時,人間は神の計画のために召されます。彼は,神の信徒でも神の小羊でもなく,神の兵卒と化すのです。すなわち,神なき世界において神の証人になるのです。神の業を神の代わりに為す「創造の倫理」こそ,彼の生きる基準となります。彼は,神の国のため,全人類的共同体のため,己の命を犠牲の祭壇に捧げます。

神の発展段階


 善から光へ,光から闇へ。よそよそしい三人称の神(he)から,個人的な二人称の神(you)へ。二人称の神から,神と合一した一人称の神(We)へ。対象的な神から内在的な神へ,内在的な神から超越的な神へ。善なる神から愛なる神へ,愛なる恵みの神から戦慄すべき生ける神へ。人間は長い旅路の末に,旧約の預言者や新約の使徒の如く,神の聖召を受けることになるのです。

人格の顕現


 さて,様々な山道から入山した旅人は,遂には同じ頂点に立ちます。そこでは,どんな景色が広がっているのでしょうか?そこでは,どんな事態が起こるのでしょうか?山の頂上において,人間は人格に覚醒します。人格とは,全体性としての人間であり,ミクロコスモスとしての神性,本来的自己,霊的本質です。哲学的に言えば,実存的核といえるでしょう。

自我から自己へ


 この実存的核は,諸宗教・諸学問において,様々な名前で呼ばれてきました。仏教では空,禅宗では絶対無,あるいは真如や般若とも呼ばれました。イスラム教では「存在そのもの」やロゴス・ムハンマドと呼ばれ,キリスト教では聖霊やロゴス・キリストと呼ばれました。儒教では太極,ヒンドゥー教ではアートマン,道教では道(タオ)と呼ばれました。また,分析心理学では曼荼羅ビジョンとして,哲学では統合的一者と称されたこともあります。いずれにせよ,名前や表現は違えども,人間は自己の根底に目覚める時,神的な何か(エックハルトのいう神性)を発揮するようになるのです。

神の子の誕生


 人間が唯一無二の神性に目覚める時,どんな性格を帯びるのでしょうか?能力や使命は様々でありましょう。しかしながら,共通する性質があります。第一に,神との正しい関係です。

Right with God, and all will be right.
(神との関係を正しくせよ,そうすれば全てが正しくなる)

 神と正常な関係を回復することによって,人間は絶えず感謝するようになります。第二に,正しい自己認識です。人間は自己を正しく自覚することによって,本当の卑下を学びます。第三に,他者との良好な関係です。人間は,人間と共に生きるよう創造されました。すなわち,他者との出会いは,避け難い運命ではなく,めくるめく喜びなのです。そして,喜ぶ人間は,ユーモアに富んでいます。笑うことを知り,微笑むことを知り,余裕をもって他者と向かい合います。
 いずれにせよ,超人的能力ではなく,人間的な「感謝・卑下・ユーモア」こそ,神の子の性格であると私は考えます。

※聖書の解釈が何であろうと何でなかろうと,神の子が受肉したこと,受肉したキリストが人間らしく生き,そういうキリストを神は高挙されたことによって,神は「最高の人間性こそ神性の実現である」ことを確証されたのです。
 

参考書籍です。


参考動画です。


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