イスラム教はどう生まれたか

引き続き「世界史講義」茂木誠著 から学んだことをメモ。

ムハンマド登場

イエスが亡くなって600年が過ぎ、ローマは東西に分断された頃、アラブ人は、商業民族として過ごしていた。商業民族になれたのは、東ローマ帝国とササン朝ペルシアの争いを避けるようにアラビア半島を西から北上する貿易の中継地点で、経済発展を成し遂げたからである。

アラブ人は、多数の部族から構成されていた。それぞれの部族がそれぞれの神を信仰し、部族同士で争い合っていた。

そんな中、ムハンマドは40歳を超えて、ヒラー山にこもり、戻ってきて説教を始める。

「いろいろと神をまつっているが、アッラー(アラビア語で神)は一人だけだ。神の名も言ってはならない。モーセの十戒にも書いてある。さらに、モーセもイエスも預言者にすぎない。そして私も。アッラーは私を最後の預言者に選んだのだ。」

そして、ムハンマドが語ったアッラーの言葉をまとめたのがコーランである。ちなみに、ムハンマドは、コーランも旧約聖書も新約聖書も重んじていた。

ムハンマドは、メッカにあるカーバ神殿を破壊せよと命ずる。メッカはユダヤ人共通の聖地であり、カーバ神殿には、アラブ人がそれぞれの神を祀りにきていた。

当然そんなことは他のユダヤ人が許すこともなく、ムハンマドは北のメディナに追放される。

しかし、そのメディナでムハンマドの信者は増えていき、1万人に達する。そして、その軍勢をつれ、メッカを攻めた。

カーバ神殿の中にあった偶像もすべて破壊し、中は空っぽになった。実はモーセの十戒には、偶像崇拝が禁止されており、ムハンマドは忠実に守ったことになる。

キリスト教とイスラム教がもめる理由は2つある。

1つはこの偶像。キリスト教は偶像崇拝についてのルールがゆるい。

もう1つは神。イスラム教は、神はアッラー唯一であり、ムハンマドやイエスは預言者に過ぎないとする。一方、キリスト教にとっての神はイエスである。


イスラム教には、暴力と女性差別のイメージがある。しかし、これにはイスラム教とキリスト教の決定的な違いが背景にある。それは、「政教一致かどうか」である。ムハンマドは、ばらばらだったアラブ民族をまとめる軍事指導者であった。それ故、愛を説いている場合ではなかった。一方イエスにはその側面はない。したがって、「もし右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」と説くことができたのである。

また、イスラム教の顔を隠した女性は、男性が養ってやれという意味が込められていたのである。


上述の通り、ムハンマドは王様でもあった。したがって当然後継者問題がでてきた。

ムハンマドは息子を幼くしてなくし、一人娘のファーティマしかいなかった。不安定な時代を娘に任せるわけにもいかず、奥さんのお父さんに(義理のお父さん)に任せることになった。

1人目がアブー・バクル、2人目(別の奥さんの父)がウマル、3人目がウスマーンという。これら後継者を「カリフ」という。

4代目カリフを決める際、カリフの座をめぐって争いが起きた。ムハンマド一族の「ハーシム家」と、シリアの総督「ウマイヤ家」の争いである。

ウマイヤ家は東ローマ帝国への最前線としてシリアの総督を務めていた。2代目カリフ、ウマルの時代にアラビア半島に加え、イラン、シリア、エジプトまでを征服していたのである。

選挙の結果、4代目カリフは「ハーシム家」のアリーが選ばれた。ムハンマドのいとこにあたり、ファーティマの婿にも迎え入れた。

しかし、アリーはウマイヤ家との妥協を図ったために、ハーシム家側の過激派がアリーを暗殺してしまう。これにより、5代目カリフは「ウマイヤ家」のムアーウィアとなる。

ムアーウィアは、選挙をやめ、カリフをウマイヤ家の世襲にすることを提案した。当然ハーシム家は激怒し、反乱を企てた。しかし、ウマイヤ家にボコボコにされ、ハーシム家は壊滅する。

ところが、生き残ったハーシム家の人々がいた。彼らは、「我々こそが真のムハンマドの後継者だ」と言いながら、生きていく。彼らの支持者が、「シーア派」なのである。シーア派は血統重視である。シーア派は、指導者のことをを「カリフ」を用いず、「イマーム」という。初代イマームがアリーである。

一方、アリーはウマイヤ家にとって4代目カリフである。このカリフの系統、ウマイヤ家の系統の支持者が「スンナ派」なのである。スンナとは慣習という意味。イスラム教徒の慣習である。「コーラン」と「スンナ」に従えば、カリフにもなれる、これがスンナ派の考え方である。


シーア派には特殊な考え方がある。7代目イマーム、「イスマイル」が若くして亡くなったとき、人々は、迫害がひどいためにアッラーがかくまっているのだ」と解釈した。これをイマームの「お隠れ」という。

同様に、11代イマームが亡くなったとき、葬式に見慣れぬ少年が現れた。彼は、

「父さんの葬式は後継者である僕がやる」

そういったきり、いなくなってしまった。人々はこれを「お隠れ」と解釈し、彼は12代イマームだったのだと考えるようになった。この少年は「アル・マフディー(救世主)」とも呼ばれ、今でも最高指導者である。

時々、12代イマームの代理人を名乗って、シーア派の革命運動を起こす人が現れる。実は、1979年イラン革命後、シーア派のホメイニは12代イマームの代理人を名乗って政権をとった。次のハメネイもそうである。

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