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毒草の怪談

 道に迷ったわけではないと思うが、帰路が異様に長く感じられた。わたしはヘッドライトが照らす林道を走りながら、度々襲ってくる眠気と戦っていた。秋もずいぶん深まった月のない夜だった。ときおり雷鳴が聞こえ、空に光線が走る。
 急ぐわけではない。十五分だけ眠ろう。わたしはそう思って路肩にクルマを停めた。エンジンを切り、ヘッドライトを消すと漆黒に包まれた。喉が渇く。コンビニでもあればカフェイン入りの温かい飲み物が買えるのだが。荷室にペットボトルに水があったはずだが、取りに行くのが億劫だった。
 「急ぐわけではない」
わたしは声に出して言った。だがぽつりぽつりとクルマを打つ雨音が聞こえて来た。強い雨になりそうだ。谷川が増水すると危険である。わたしは仮眠を諦めてエンジンをかけた。シートを起し、ヘッドライトをつけると信じがたいものを見えた。歩行者である。ベージュのコートの髪の長い女性が赤い傘をさして歩いて来る。
 「あのう、こんな雨の夜道を、おひとりで大丈夫ですか」
わたしはウインドウをおろして言った。彼女はこちらを見た。色白で唇だけが赤いうりざね顔である。彼女は美しかった。
 「少し困っています」
赤い唇が妖しく動いた。
 この付近に民家などない。いったいどこから歩いてきたのだろう。
「よろしければ、このにわか雨をやりすごすまでおクルマに乗せていただけませんか」
 年のころは三十代前半だろうか。落ち着いた態度からみてもう少し上かもしれないし、ずっと下かもしれない。
「どうぞ」
わたしが言うと、彼女は傘をたたんで助手席に乗り込んできた。
 「送りますよ」
「よろしいのですか」
「急ぐ用はありませんので。ご自宅はどこですか」
「自宅といいますか、温泉旅館に宿をとったのですが、ちょっと散歩のつもりが道に迷ってしまいまして」
「それは大変でしたね。でもこの付近に旅館なんてありましたか」
わたしは首を捻った。土地勘はあるつもりだが、この近くに旅館なんて聞いたことがない。
 「旅館の名前は」
「覚えてません。わたし、もしかしたら狐に騙されていたのかも知れません」
「まさか狐なんて」
わたしが笑うと彼女も笑った。
 カーナビで検索してみたが、やはり付近に宿泊施設はない。念のためスマホで一通り調べてみたが、二十キロほど北へ行った民宿が最寄りである。ならば彼女はどこから歩いてきたのか。
 「秋本涼子と申します。名古屋の飲食店に勤めています」
飲食店の店員を名乗る女性はおおよそキャバ嬢である。通常なら中華料理店やイタリアン、フレンチ、ファミレス、牛丼、ハンバーガーなど、もっと具体的な単語が加わるはずだ。
 「大岩と申します。名古屋でグラフィックデザイナーをしています」
「グラフィックデザイナーって、どんなお仕事ですか」
「簡単にいうと広告屋です。対象の商品がさも高品質かのように、さらにお買い得かのように手練手管を駆使して印刷紙面でアピールする仕事です」
「あら、人を騙すのがご職業なんですね」
彼女は口に手をあてて笑った。
「広告ってそんなもんですよ」
わたしも笑った。
 「だったら」
秋本涼子は挑戦的な視線を向けてきた。
「騙されても文句は言えない立場ですわね」
「そうですね。本当にわたしを騙せるなら、という前提はつきますが。あなたも美貌を餌に異性を騙す立場ですよね。お互い、騙されても文句は言えない立場ってことです」
彼女は含み笑いを漏らした。
 「休日は何をされているのですか」
わたしは彼女の笑みに問いかけた。
「とくにこれといった趣味はありませんが、あえて言えば推理小説かしら。アガサクリスティや、コナンドイルあたりです」
「気が合いそうですね。わたしもそのあたりがストライクゾーンです」
「あらまあ不思議なご縁」
 「宿を出られたのは何時ごろですか」
「それが、はっきりしないんです」
なるほど、そういうことか。
 「ちょっと靴を見せて頂けますか」
彼女は頷き、右足の靴を脱いでわたしに手渡した。赤い靴だった。大きく開いた甲の部分に細いベルトが一本通っていた。大きな汚れはないし、それほど濡れてはいない。雨が降り始めたのはついさっきだから辻褄は合う。
 「派手な赤ですね。パンプスって言うんですか」
「メリージェーンです。パンプスはベルトのないタイプですから」
 わたしは懐中電灯で靴底を照らした。ほとんど減っていないし、未舗装の道を歩いたときにつく土砂の汚れもない。林道はアスファルトで舗装されている。
「もう片方も見せて下さい」
彼女は左足の靴をわたしに手渡した。
「なるほど」
踵の外側の部分に滑ったような傷があった。
 「ちょっと左手を見せて下さい」
「はい」
彼女は両手を差し出した。左手の母指球の肌が擦れたように荒れていた。
 「頭の左側に怪我をされていますか」
「分かりません」
「ちょっと見せて下さい」
彼女は屈みこむように頭を差し出した。髪を掻き分けながら懐中電灯で照らすと、左側の後頭部に近いあたりにうっすら血の滲んだ箇所がある。
「痛ッ」
傷口に振れると彼女は声を漏らした。
 「どうしてあたなは、ご自分の趣味が推理小説だと」
「コートのポケットに文庫本が二冊、アガサクリスティ―とコナンドイルがありましたから」
「ではどうして飲食店の店員だと」
「二冊とも栞がわりだと思うんですけど、同じ名刺が挟んであったんです。他人の名刺を二枚も持っている人って、あまりいませんよね」
「なるほど。では温泉宿にお泊りなのは」
「手帳に『岐阜県の温泉旅館』と書いてあったからです」
 「怪我をされているのは確かです。とりあえず病院へ行きましょう」
「困ります」
「なぜ」
「なぜって、指名手配されている可能性があるからです」
「なぜそう思ったのですか」
彼女はコートのポケットから折りたたまれた新聞の切り抜きを出した。
「手帳に挟んであったんです」
 記事の内容は次の通りだ。
『十一月十日の午後五時ごろ、名古屋市千種区のビルの一室で男性が死んでいるのを、清掃に訪れた作業員が発見しました。遺体は鋭利な刃物で胸や腹など数か所刺されていました。その後の調べで、金庫にあった現金五千万円と、銀色のスーツケースがなくなっていることが分かりました。愛知県警は防犯カメラを分析し、現場から立ち去ったベージュのコートの人物が事情を知っている可能性があるとして行方を追っています』
わたしは三度読み返して彼女へ返した。
 人生で今ほど女性のコートを脱がせたいと思ったことはない。どこかに怪我や痣など乱闘の痕跡があるかもしれないし、血痕が付着している可能性もある。
 最寄りの駅はここから十五キロほど離れた長良川鉄道の無人駅である。バスは走っていない。つまり彼女はクルマでここまで来た。自分で運転してきたか、誰かに乗せられてきたかは分からない。そのクルマから降りた彼女はどこかで足を滑らせて頭を強く打った。彼女が運転してきたとすれば、どこかにクルマが残されているはずだ。
 睡魔はすっかり吹っ飛んだ。わたしは彼女が歩いてきた方角にクルマを走らせた。五キロほど走っても車両は発見できなかった。逆方向にもクルマを走らせてみたが、オートバイも含めて車両らしいものは見当たらないし、車両が立ち入りそうな大きな脇道もない。
 「少し絞り込めましたね」
「ええ。わたし、誰かのクルマでここまで来たみたいです。わたしの中では、あなたのクルマがいちばん怪しいのですが」
「残念ながら違います」
「タクシーかもしれません」
「いくらなんでもこんなところに客を降ろすタクシーはいないでしょう」
 「あら」
彼女は闇の中を指さした。未舗装の脇道の向こうに灯りが見える。民家でもあるのだろうか。脇道の幅は狭く、雑草木の枝が茂っていて通れる隙間はほとんどない。わたしのクルマは軽トラックのカーゴタイプで、傷ひとつないぴかぴかというわけではないが、立ち入りを躊躇する道幅である。
 雨が激しさを増した。激しい雷鳴とともに一筋の稲妻が空を貫いた。思わずわたしは身を縮めた。こうしていても仕方がない。わたしは茂みに潜るように進んだ。クルマに細かい傷がつきそうだ。
 不思議なことに十メートルも進むと急に道幅が広くなった。確かに建物がある。民家というよりはキャンプ場にありそうな粗末なバンガローである。するとここはキャンプ場なのか。看板はないが宿泊施設を思わせる造りである。暗さもあって建物の大きさは一見しては分からない。小さな建物が点在しているのかも知れないし、わりと大きな建物なのかも知れない。ランタンらしいものがあちこちに灯っていた。つまり人がいるということだ。
 わたしは玄関らしいドアを叩いた。しばらく無反応だったが、辛抱強く待っていると扉が開いた。顔を見せたのは古風な着物姿の老婆だった。
 「宿をお探しかね。一人一泊二千円じゃ」
老婆の低くしわがれた声が言った。
「いえ、ちょっとお尋ねしたいんですが、こちらにはどんな方がお泊りですか」
「若い娘がひとりおったが、姿が見えぬようじゃのう。散歩にでも行ったのじゃろう」
「若い娘というのはこの女性ですか」
わたしは身を移動させて背後にいた彼女を指した。老婆はしばらく目を細めて見ていた。
「おおそうじゃ、この娘じゃ。おまえさんは、お連れさんかね」
老婆から見れば中年女性も若い娘になるのだろう。
 振り返って彼女を見ると、彼女は小さく頷いた。わたしはもう少し彼女と一緒にいることにした。
「そうです。連れです」
わたしは財布から二千円を支払い、チップとしてさらに二千円を差し出した。老婆はとくに礼を述べるでもなく無言で受け取った。キャンプ場の利用料金としては妥当な金額である。

 わたしたちは蝋燭の灯りで歩く老婆の背を追って歩いた。落雷の度に少しずつ分かってきたことは、古い木造のバンガローのような丸太小屋が壁のないトタン屋根だけの通路で接続されているということだ。やがて六畳ほどの何もない丸太小屋に案内された。老婆が壁のランタンに蝋燭の火を移すと、本当に何もないことが分かった。床は木の板で椅子もなければテーブルもない。窓もない。場違いなものがひとつだけあった。銀色のスーツケースである。おそらく秋本涼子のものだ。
 「手荷物を置いて着いて来なされ」
老婆が言った。手荷物といってもウエストバッグひとつだし、秋本涼子は手ぶらだった。赤い傘はクルマに置いてきたようだ。わたしたちはそのまま老婆の後を追った。
「風呂は混浴じゃ。この時間じゃと鹿や猿が入ってくることもあるが、それも含めて混浴じゃ。なに、危害を加えられるようなことはないゆえ、安心なされよ」
老婆が指さしたのはただの闇である。おそらく屋根も壁もない露天風呂だろう。微かに硫黄の匂いがした。
 老婆が歩き出したのでわたしたちも続いた。雨が打ち付けるトタン屋根の下を数十メートル進むと、また丸太小屋があった。老婆は扉を引いた。この小屋だけは初めからランタンに照らされていた。いろんなものが整然と並べられ、一見すると売店のように見えた。
「ここにあるものは何でも好きに使いなされ。チップの礼じゃ、食料も好きに食べなされ」
「ありがとうございます」
 手前に数十枚の毛布があった。その奥にはずいぶん使い込んだ七輪があった。ランタンもいくつかある。
「雨で見えぬが、今宵は十五夜じゃ。あれが出るゆえ鍵をかけて寝るのじゃぞ」
老婆はそう言って去っていった。『あれ』とは何かを聞きそびれてしまった。
 「あなたの口から狐という言葉が出た理由がやっと分かりました」
わたしが言うと、彼女は苦笑を見せた。
「なんにも思い出せません」
彼女は言った。
「とりあえずランタンが必要なようです」
わたしはランタンに火をつけ、ふたり分の毛布と、バスタオルとフェイスタオル、暖房代わりの七輪、袋に入った炭を抱えて立ち上がった。彼女がランタンを持って先導してくれた。
 湿気った炭に悪戦苦闘しながら火を熾すと、小屋は少しずつ暖められた。
「何か食べますか」
わたしは空腹を覚えていた。
「そうですね。飲み物があるといいんですけど」
彼女は言った。そうだ。わたしも喉の渇きを思い出した。小道具小屋には水らしいものもあったが、飲めるのかどうか怪しい。雨水を飲むわけにもいかない。クルマに頂き物のウイスキーがあったはずだ。気休め程度の殺菌はできる。
 わたしは一旦クルマに戻り、ウイスキーのボトルと、工具箱からカッターナイフと懐中電灯を取り出してポケットに入れた。部屋に戻ると彼女の姿はなく、彼女の着ていた服だけが残されていた。露天風呂に屋根のある脱衣室は無さそうだから、服を濡らさないためにはこうするしかない。服を調べてみたかったが、ルール違反のような気がしてやめた。というか、いかにも調べてくださいと提示されているものだけに、何かの罠を疑った。
 わたしは小道具小屋に戻って食べるものを探した。干飯や乾燥野菜、味噌や醤油などの調味料は一通り用意されていた。すぐに食べられるものはない。冷蔵庫はなかった。どうも電気が来ていないらしい。
 「雑炊が作れるな」
わたしは独り言ちた。
 彼女のメモ帳にある『温泉旅館』という文字は、ある種の暗号的な使われ方がされたのかもしれない。つまり、彼女はメモ帳を盗み見られることを予見してあれを書いた。いや、さすがに考えすぎか。
 罠、というワードに心が踊った。鉄鍋に水を入れると、わたしは服を脱いで下半身にバスタオルを巻き、ランタンを片手に露天風呂へ向かった。
 岩風呂というだけに大きな岩がゴロゴロしている。
「いい湯ですね」
わたしは姿の見えない秋本涼子に言った。返事はない。返事をするのが面倒なのか、もうとっくに上がってしまったのか。まさか死んでいるなどというサスペンス劇場のような流れにはならないはずだ。湯は熱いが、打ちつけてくる雨が心地よい。
 湯の揺らぎを感じた。彼女はすぐ横にいる。
「あとで頭の怪我の様子を見せて下さい」
わたしはそう言って彼女の髪へ手を延ばした。
 彼女じゃない。息遣いが獣じみていた。わたしの身は凍り付いた。それは硬い毛で覆われた何かだったからだ。
「お婆さんが言ってたでしょ。危害を加えることはないって」
風呂の向かいの遠いところから秋本涼子の声が聞こえた。わたしの横にいるのは間違いなく熊である。
 わたしは微動だにせず地獄の時間を過ごした。と言ってもたぶん数分である。やがて熊は湯に満足したのか、のしのしと湯を掻き分けて去っていった。まだ冬眠しないということは、あの老婆が餌付けしている可能性もある。
 「意外に臆病なんですね」
「物理的な脅威に警戒しないのは馬鹿と同じですから。それにしても必要以上にスリリングな宿ですね」
「そうですか。わたしには適度なスリルですけど」
可愛くはない性格のようだ。どこか曲がっていて普通ではない。だからだろうか、いまいち男性特有の保護本能が発動しない。
 その後、猿が来たし鹿も来たが、動物たちはわたしたちを見てもとくに動じることはなく、威嚇するでもなく、安全地帯とばかりに雨に濡れた体を温めて去っていった。わたしたちものぼせる前に丸太小屋に戻り、背中合わせに服を着た。
 炭火にかけた鉄鍋が沸騰していた。こんな用途を想定してか、野菜はみな一口大に切ってから干されていた。わたしはそれを鍋に放り込んで煮込んだ。
 備品小屋には、食器は茶碗とお椀と小皿の三種しかない。彼女は二つの茶碗にウイスキーを注いで水で割ってくれた。
 「どんな人にニーズがあるのかしらね、この宿」
彼女が言った。
「キャンプ場のテイストですが、奥さんや子どもを連れて来るには不向きだから、格安の釣り宿ってところでしょうか」
「もしくは犯罪者、逃亡者専用」
「それはありません。管理人の婆さんに宿泊客を尋ねたら、あっさり若い娘がひとりと答えましたからね。犯罪者専用なら口を割りませんよ」
そこまで言ってふと、わたしはこの女とあの婆さんがグルの可能性に気づいた。彼女の頭の傷はただの演出かも知れない。
 「あなたを騙す必要性、というか動機はあるのかしら」
わたしの心を読んでいたかのように彼女が言った。
「ありませんね」
わたしは偶然通りかかっただけのエキストラである。習慣的にここを通るわけではない。今日は客に印刷物を納品するため、久しぶりにこの道を通った。
 茶碗のウイスキーとは風流なものである。一口飲むと謎はさらに深まった。彼女は飲食店の店員、つまりキャバ嬢、またはスナックやガールズバーの店員である。だとしたらウイスキーを五対五で割るはずがない。これはトワイスアップと言って、ウイスキー通が初めてのウイスキーの味をみるときの割り方である。すると秋本涼子という名前も怪しくなる。彼女は飲食店の店員ではない。
 彼女はタオルにウイスキーを吸わせて頭部に当てた。「サントリーウイスキー響」、年に一本飲めるか飲めないかの高級ウイスキーが消毒液にされているわけだが、この場合ややむを得ない。
 化粧を落としているが、ランタンでは光量不足でやはり齢を推測できない。四十代かも知れないが、二十代の可能性もある。
 「飲まないのですか」
彼女にウイスキーを口にする素振りはない。
「だって分からないじゃないですか。わたしが飲める体質かどうかなんて」
「香りを嗅いでみてください。唾液は出てきますか」
彼女は茶碗を持ち上げて香りを嗅いだ。
「とても心地よい香りだと思います」
「だったら飲み慣れているはずです。ちょっとだけ口に含んでみてください」
彼女はウイスキーを口に含み、直後にむせ返った。わたしは確信した。やはり水商売の女ではない。彼女もそのことに気づいたはずである。わたしたちは同時に立ち上がって壁にかけたコートを見た。
 彼女の身長は一七〇センチ弱、日本人にしては長身の、痩せ型の女性である。
「ちょっと着てみてください」
わたしは言った。彼女はコートを羽織った。
 「やっぱり」
わたしたちの声は異口同音に重なった。肩幅のサイズが合っていない。
「あなたには少し大きいようですね」
「もしかしたらこれ、メンズかもしれません」
なるほど。デザインを見る限り男物である。わたしたちは考え込むように黙り込んだ。
 「とりあえず食べましょう」
わたしは言った。
「そうですね。わたしの脳にも糖質が必要なようです」
彼女が答えた。
 鍋に干飯を入れた簡単な雑炊ができていた。空腹に不味いものなし。わたしたちは黙々と食事を済ませた。
 食べ終えるとすぐにコートを調べた。上質な羊皮のダウンで、ほとんど新品に近い。左の腰あたりに傷があるが、これは彼女が転んだときのものだろう。彼女が言ったように、右のポケットには推理小説が二冊、左のポケットには手帳、内ポケットには財布があり、中身は一万円札が一〇枚と、千円札が六枚である。
 「おかしいとは思ったんです。女が財布をコートの内ポケットに仕舞ったりしませんから」
「小銭入れはコートの持ち主のズボンの中でしょうね。あなたは男性と一緒にいた。男性の身長は、コートから推測して一七五センチ前後。中肉中背。その男性は鞄を持っていない。クルマを運転し、あなたを助手席に乗せていた」
わたしが言うと彼女が続きを言った。
「そしてつい最近キャバクラで遊んで、秋本京子さんというキャバ嬢と知り合った。たぶん酔っていた。『あれ、おかしいな。さっきもらった君の名刺、本に挟んでおいたはずなのに見当たらない』ってことでもう一枚もらった。普通は二冊も同時に読むはずないから、推理小説は話題づくりのために持って行ったんでしょうね」
 「問題は、なぜあなたがこのコートを着ていたかです」
彼女は首を捻ったまま、何も答えなかった。
 「このスーツケース、本当にわたしのものかしら」
わたしたちは銀色のスーツケースの前に腰を下ろした。スーツケースには鍵が掛けられていた。ずっしりと重い。揺すってみると梱包された箱のようなものが入っているようだ。新品か、それに近い状態のもので、しっかりした作りだがブランド名などはなかった。鍵を壊すのはルール違反のような気がした。
 「札束なんてことはないでしょうね」
「もし札束なら、新聞記事にあった五千万円かもしれません。でもわたしのコートにもシャツにも返り血はありません。あら、これ、どういうことかしら」
彼女の細く白い指が撫でたのは、おそらく布テープを剥がした跡である。
「何かを貼り付けていたみたいですね」
 「シッ」
わたしの言葉を遮るように、彼女は口の前で人差し指を立てた。
 ミシリ、ミシリと通路を歩く音が聞こえた。わたしは扉を薄く開けて外の様子を見た。通路の壁には火のついたランタンがかけられている。通行者の姿は見えなかったが、どうやら通り過ぎていったようだ。さっきの老婆かもしれない。
 わたしたちは七輪の前に腰を下ろした。
 「大岩さん、毒草でシリトリしませんか」
彼女が唐突に言った。
「毒草でシリトリですか。わたしは構いませんが」
「大岩さんからどうぞ」
「では、バイケイソウ。根にジェルビンやベラトリンなどのアルカロイドを含んでいます」
「ウですね。ウマノスズクサ。アリストロチンを含んでいますから、喫食すると呼吸停止などを起します」
彼女は即座に答えた。
「サンシキスミレ。神経毒のビオリンを含有しているので、摂取すると吐き気や神経の麻痺を生じます」
わたしも間髪を入れずに答えてやった。しかし彼女は手強かった。
「レンゲツツジ。ドクツツジとも呼ばれています。葉に高濃度のアンドロメドキシン。花にもロドジャポニンを含んでいますから、痙攣で呼吸が停止します」
「では、ジギタリス。別名はキツネノテブクロ。ジギトキシンが不整脈や嘔吐、下痢、めまい、耳鳴を起します。摂取量次第で心臓麻痺も起します」
「スイートピー。可憐な花ですが、毒性アミノ酸で頚椎麻痺が現れます」
困ったことが起きた。わたしは脳をフル回転させたが、ピで始まる毒草なんて思い当らない。
「わたしの知識が正しければ、ピで始まる毒草なんてありません。あなたに答えることできたら負けを認めましょう」
「ありますわ、ピレアです。ピレアの仲間のヌンムラリイフォリアの葉に毒性がありますわ」
「それならピレアではなくヌンムラリイフォリアと答えるべきでしょう」
彼女は軽く舌打ちした。なかなかの負けず嫌いらしい。
「仕方がありません。ここは引き分けということにしておきましょう」
彼女は言った。
 彼女が知りたかったのは、わたしに毒草の知識があるかどうかだろう。彼女の記憶障害が外傷性のものでなければ、なんらかの薬物が使われた可能性がある。つまり、まだわたしを疑っているということだ。
 しかし彼女の知識もなかなかのもので、痛快ですらある。どうやら推理小説が好きなのは本当らしい。
 「人のうめき声かしら」
彼女が言った。耳を澄ますと、ウー、ウーとうめき声のような音が聞こえる。わたしはLEDライトを取り出した。
「便利なものをお持ちですね」
彼女が言った。
「ちょっと様子を見てきます」
わたしは腰を上げて扉の前に立った。
 扉を押す。強い冷気だ。彼女はコートを羽織って戸口にいる。
「大岩さん、後ろ」
彼女の鋭い声に振り返ると、一目でそれと分かる生きていない人間がわたしに手を延ばそうとしていた。わたしは数歩退いた。半分潰れた頭から流れた血は干からび、首は生きている人間には不可能な角度に折れていた。わたしは何かに躓いて尻もちをついた。コンクリートブロックだった。武器が手に入った。それを投げつけてやると、脳の残りが飛び散ってゾンビは倒れた。
 「こんな現象、科学的じゃないわ」
彼女が言った。
「確かに科学的ではありませんね」
 ウー、ウーといったうめき声はまだ方々から聞こえる。取り囲まれているようだ。
「あらまあ、どうしましょう」
彼女の言葉にわたしは考えた。小屋に閉じこもるという手もあるが、頑丈な小屋ではない。かと言って逃げてもクルマまで無事たどり着けるかどうか。
「あなたならどうします」
わたしは逆に問いかけた。
「そうですね、火をつけましょう。とりあえず盛大に明るくしましょう」
妙案である。備品小屋には灯油があったはずだ。ここの経営者には本当に申し訳ないが、今は命を守るしかない。
 わたしたちは備品小屋まで走った。何匹かゾンビが立ちはだかったが、勢いに任せて蹴り倒した。わたしは灯油缶のキャップをあけて振り撒いた。そしてマッチを摺り、数歩下がって投げ入れた。
 「素敵」
炎は美しく燃え広がった。そして夜の森に視界を開いた。
「あっ」
光を得てようやく見えた。わたしたちは百体か、もしかしたら二百体はいるかもしれないゾンビに取り囲まれている。
 「日本は火葬の国です。やっぱり科学的じゃないわ」
「しかし、これは現実ですよ」
わたしは彼女の手をとって通路を走った。だが角を曲がるとゾンビの群れがいた。
「あの林を駆け抜けましょう。噛まれると、もしかしてわたしたちまでゾンビに」
「いくらなんでも映画の観すぎですわ」
「だったらこの事態をどう説明するんですか」
彼女は答えず、わたしと一緒に杉林を走った。
 わたしはLEDライトを振り回して武器になるものを探した。クルマまでたどり着ければなんとかなりそうな気がしたが、まさかそこまで丸腰で活路を開くわけにはいかない。彼女がしゃがみ込んでいくつか石を拾ってくれたが、鉄パイプのようなものがない限り心もとない。ポケットにカッターナイフがあったが、人であったものを斬るほど強い刃ではない。
 「大岩さん、学生時代の部活はなんでした」
「卓球部です」
「なんの役にも立ちませんわね。せめて剣道部か、柔道部なら」
「仮にそうでも、身体なんてとっくに訛ってますよ」
 少し走っただけで動悸が収まらない。軽い目眩にわたしは倒れ込んだ。杉の枯れ枝の香りがした。『逃げなければ』という思念だけが残っていた。だが振り返ると森は真っ暗だった。火は燃えていない。ゾンビの気配もない。左後頭部がズキズキする。怪我をしているようだ。
 そして彼女がいない。
「秋本さん」
それが彼女の本当の名前かどうかも分からないが、とりあえず呼んでみた。返事はない。わたしはふと思い出して苦笑した。秋本涼子とは、小学生のとき転校していった幼馴染の名だ。六歳か、七歳のころのことである。久しぶりに思い出した。
 水が飲みたい。わたし立ち上がり、手探りで杉林を歩き、谷水の音を探した。ガードレールに脚をぶつけた。それを跨ぐとアスファルトだった。LEDライトはどこかに落としてしまったのか、最初から持っていなかったかのどちらかだ。
 「アニマ」
わたしは独りごちた。男性中の女性像の総称である。人は六つか七つまでは両方の性を持っている。しかし片方を抑圧することで男性性、女性性を育む。抑圧する側を間違えて同性性を育んでしまうこともときどきあるが、通常は社会の同調圧力から異性性を抑圧して育つ。これはスイスの精神分析医ユングが提唱した性の概念である。恋愛対象として夢に出てくる異性は、男性ならアニマ、女性ならアニムスと呼ばれる。そしてアニマ、アニムスは当人の理想の異性である。
 「あれがわたしの愛しいアニマか」
わたしは口に出していった。趣味が同じなのも、薬草の知識が互角なのも、彼女の正体がわたし自身の女性性だからである。それが何かのはずみで幼馴染とリンクしたのだろう。
 わたしはコートのポケットから文庫本を二冊取り出した。アガサ・クリスティ―とアーサー・コナン・ドイル。栞代わりの名刺を確認すると、やはり秋本涼子だった。『適当な名前で十種類ぐらい印刷して欲しい』と頼まれて、ありふれた名前で三種、今風のキラキラネームで、名字のない名前だけのものを七種刷って、ついさっき納品してきたばかりだ。秋本涼子の名はその中のひとつだった。風俗店では名前なんてどうでもいい。名刺の名前を名乗らせるだけだ。

 「ああ大岩さん、いいところに来ましたね。ちょうど鍋ができたところですよ。飲んでってください」
若い娘の笑い声が聞こえていた。店の女を連れ込んでいるのだろう。
「いや、クルマなんで」
「泊ってきゃいいじゃないですか」
「いや、そういうわけには」
「じゃあノンアルコールビールでも出しますんで。実はちょっとキノコを見て欲しいんです。山で適当に採って来たんですがね、食べられるかどうか分からないんで」
 そういうことか。名刺を置いたらすぐに帰るつもりだった。わたしはこの男が好きではない。金さえあれば何でも買えると思っている拝金主義者だ。とはいえ、一応は客だから無下に断るわけにはいかない。靴を脱ぎ、ソファに腰を下ろすとさっそくひとりの女が腕を絡めてきた。こういう女がいちばん好きになれない。強すぎる香水には反吐が出そうだ。
 田舎育ちのわたしは茸類に詳しい。また推理小説ファンだから毒物にも造詣が深い。有毒のものと、毒性はないが不味いものを選び出してやると、どこからか戻ってきた客は窓を開けて放り投げた。女らが安全なキノコを包丁で刻んで鍋に放り込んだ。
 「いやぁ、助かりましたよ大岩さん。あ、そうだ、先日もお話したようにこの別荘、近々改築して旅館にすることにしました。広告のほうはお願いしますよ」
「ありがとうございます。そっちのほうはお任せ下さい」
 食材は高級で、さすがに旨い鍋だった。最近のノンアルコールビールは味がよく、すっかりご馳走になってしまったが、ゴボウだけが旨くなかった。香りがなく妙な苦みがあった。どうやらあれはゴボウではない。
 「ピョンヤン牽牛」
ようやく『ピ』で始まる毒草を思いついた。別名『チョウセンアサガオ』。こっちのほうが一般的な呼び方である。園芸店では『ダチュラ』という名で売られている。あちこちで野生化しているが、葉や根、花など全草が毒性で、強い幻覚作用がある。摂取量によっては死に至る。これを台木にした茄子を食べて死亡した例もある。どうせ山菜狩りと洒落込んで、野生のゴボウと間違えたのだろう。都会育ちの連中はこれだから危険だ。
 あの人たちが危ない。わたしは自分のクルマを探してアスファルトを走った。クルマは路肩に止めてあった。ペットボトルの水を飲み干すと意識がいくらかはっきりした。なんとか運転はできそうだ。エンジンをかけて客の別荘へ引き返した。雪が降り始めた。まだ幻覚が見えているのかもしれないし、本当の雪かもしれない。雪は次第に激しさを増した。困ったことにノーマルタイヤで、チェーンも積んでいない。路面にグリップがあるうちにたどり着かなければならない。
 わたしの客は庭先に倒れていた。どうやら石垣を転げ落ちたようだ。意識はないが息も脈もあった。とりあえず彼をそのままにして別荘に入った。ひとりの女が包丁を持って震えていた。
「もう大丈夫だよ」
わたしが言うと、女はほっとした顔で座り込んだ。人は、トランス状態では囁かれた言葉を無条件に信じてしまう。
 「何があった」
わたしは女に問いかけた。
「ゾンビが襲ってきたんです」
「なるほど」
彼女の手から包丁を取り上げて、水を飲ませてやった。女はあとふたりいたはずだが、姿が見えない。
「ふたりとも連れていかれました」
女が言った。
 わたしは消防に連絡し、チョウセンアサガオ中毒の可能性を伝えた。裏口から外へ出ると、雪の上に無数の足跡があった。追っていくと谷底への滑落の跡があった。ここから落ちたのならもう助からない。

 後に聞いた話では、ふたりの女はトイレに隠れていたようだ。雪も降っていなかった。庭先に倒れていた客は脚と腕の骨を折っており、錯乱状態が朝まで続いたらしい。三人の女は摂取量が少なかったせいか、すぐに覚醒し、大きな後遺症は見られなかった。水商売の女は酒を飲みなれているせいで肝臓の毒消し能力も強くなっているのだろう。
 この客、いつも印刷物を名古屋の本社に届けて欲しいというし、今回もそう聞いていた。夕方の指定された時間に本社に訪れると、従業員の男がひどく恐縮しながら、岐阜県の別荘に『今晩中に届けて欲しい』と拝むように言ってきた。キャバ嬢の名刺などそう急ぐものではないはずだ。面倒だとは思ったが懇願されれば仕方がない。
 わたしを別荘まで走らせた本当の理由は何だったのか。まさかキノコの選別ではあるまい。考えられる可能性はひとつ。わたしは軽貨物の天井を調べた。やはり布テープの跡があった。銀色のスーツケースはわたしのクルマの屋根に貼り付けてあったのだ。夜なら気づかない色である。わたしにキノコを選別させたのは、それを回収するまでの時間稼ぎである。わたしは舌打ちした。広告屋は人を騙す仕事だから、騙されても文句は言えない。
 さて、問題は殺人現場から立ち去ったベージュのコートの人物である。わたしではない。その時間、わたしは他の場所で事件とは無関係な人物と会っていた。やがて四十代の無職の男が殺人容疑で逮捕された。報道では、殺したことを認めたうえで、金は奪っていないと供述しているらしい。

 不思議な話をしよう。遠く離れた別荘の男女四人は、わたしが見たものとそっくりのゾンビを見ている。学生のころ不良グループにいた知人から聞いたことがある。何人かでシンナーを吸っていると、全員が同時に同じ幻覚を見ると。例えば小人が駆け抜けていく幻覚を皆が一斉に見る。わたしは銀色のトランクケースを一度も見たことがない。しかしわたしが見た幻覚には、布テープの跡まで鮮明に見えていた。トランスパーソナル心理学では、変性意識状態では、内部表現を共有できるとしている。これは薬物によるトランス状態でも同じである。しかし推理小説マニアがそれを認めてしまったら、あり得ないトリックが成立してしまうことになる。
 わたしは気になって、件のキャバクラを覗いてみた。見覚えのある、包丁を持って震えていた女が秋本涼子を名乗り、わたしに名刺を差し出した。事件当日のことを尋ねてみると、赤い傘を持ったベージュのコートの、髪の長い中年女性が入ってきて、『もう大丈夫だよ』と言ってくれたおかげで、やっと落ち着くことができたと話した。その女性は真っ赤なホーキンスのメリージェーンを履いていたという。その後、彼女が水を飲ませてくれて、救急車を呼んでくれたが、警察からはそんな女性は存在しないと言われたそうだ。

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