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聖地巡礼-堰口?カテドラル大聖堂


講談社旧本館 → 東京カテドラル聖マリア大聖堂 → 肥後細川庭園 → 関口芭蕉庵 → 文京区立江戸川公園
今日、オルタナティブ日本史研究部の仲間と文京区音羽の名所巡りをしました 

2000年の初めに家の建て替えの為の仮住まいにと落合南長崎という
まったく地縁のない場所に半年ほど住みました。
当時、今ほど行動力があれば今日訪ねた場所は馴染みのはずだったのに 
縁のない土地に圧倒されていたのか?
結界を越えられなかったのか?
会社の同僚の結婚式に呼ばれたカテドラル大聖堂以外はは未踏の地ばかり
そのカテドラル聖マリア大聖堂だけでも気になることが満載でした

教会のはじまり

オズーフ大司教は、東京の発展と司教座教会の将来を考慮し、東京の中心地に土地を探した。
1886年常陸国茨城郡宍所の藩主、松平大炊頭頼徳の屋敷跡4,800坪を見つけ、そこを購入した。これが関口の現東京カテドラルの敷地である。

構内探索


前回とはまったく印象が違う
私は一体何を見ていたのか??

こんなオベリスクあったっけ?

下のページの大聖堂を上から見た写真には注目

ルルドの泉があったなんて全然知らなかった

右上のマリアは
裏側も(実は張りぼて)
なりたち


大聖堂の中は残念ながら撮影禁止だったので、下のフランシスコザビエルの胸像はインターネット上から拝借 写真下の文はメディチ家の陰謀 大大好きの私にはとても興味深い内容だったので手書きで写してきました
なので、写し間違えの可能性はございます

1549年フランシスコ ザビエル(天文18年) 聖遺物を納めた胸像 フランス国王ルイ13世の母マリード・メディチが1642年ドイツのケルンのイエズス会に寄贈 1964年カテドラル落成に当たってクリングス枢機卿により当所に寄贈されました 2004年東京ケルン司教区友好50周年記念の折ケルンで修復

マリー・ド・メディシス

家に帰って復習したところ マリー・ド・メディシスはケルンでお亡くなりになったんですね 

ケルン

現在の大聖堂は、ドイツのケルン市の信者たちの寄進をもとに、昭和39年(1964年)、世界的にも有名な建築家・丹下健三の設計により建造されたとのことで、
「構内にドイツのケルンホールがあるのはなぜ?」
と思ったら 縁があるのですね 
313年 コンスタンティヌス皇帝がキリスト教を認めた年に最初の司教(聖マテルヌス)がケルンに任命されたというキリスト教の歴史上重要な地位にある司教区とは露知らず

ミャンマーとのつながり

あらあら?ケルンとのつながりを調べている内に開けてしまった
「カトリック東京大司教区」
サイトを見たらミャンマーともつながるんだわ どうして??

私のチェンマイでの手仕事のアシスタントをしてくれる若い女性は生後11か月でミャンマーから戦火を逃れてチェンマイにやってきて、その後5歳までは物乞いをしていました ミャンマーの子供たちが彼女のような状況に陥ることがないようにミャンマーの現況については常に気を配っています
ミャンマーとのつながりについては今後の課題に

バスク地方

ところで、最近Facebook友達に教えていただいたばかりなのですが、フランシスコ ザビエルはバスク人とのこと。

最近塩野七生さんの
「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」
を読み返したら、ニッコロ・マキャヴェッリの『君主論』で有名なチェーザレ・ボルジアはバスク人のナバラ王国と血縁関係にあるので注目しております

ルルドはバスクに近いのね

聖母つながり

近くに叔母が生まれた聖母病院があるので
「あの辺りはやたら聖母が好きだなあ」
と考えながら帰宅して 街歩きで訪ねた場所を母に話したら
「近くに鬼子母神もあるわよ!!」
ですって 
今度はその観点から自転車で周ってみようと思います

次回の探索経路

堰口と関口


余談ですが、題を関口カテドラル大聖堂なのに堰口と書いたのは
江戸川公園の下の表示を読んで 「オルタナティブ日本史研究部」のY子さんが
「なーんだ 関口じゃなくて堰口なんじゃない!」
と気づいてくださったからです 関所もないのになんで関口なのか?と抱いていた疑問が解けました 漢字って固有の情報をもっているから変えられると色々なことの意味が分からなくなる 水関連は特に後の世代に受け継ぎたい情報です





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