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それは、愛ではない

心配する事と、見守る事。どちらが尊いと思いますか?

言わずもなですが

答えは後者「見守る事」です。

あなたのことが心配で…とか、あなたを心配して言ってるのよ!

と、おっしゃられる方に昔からずっと申し上げたいのですが、
その、
ずいぶんと、
都合よく使う、
「心配」という安っぽい印籠。
それは、その方自身の問題なのです。
そんなことほざいている方こそが元来は心配の大元です。どうぞ他者にエネルギーを使う前にご自身を心配してください。
そういう方は人を心配出来る身分ではありません。
ご自身の問題から目を背けるために、他人を自分の都合の良い風に役柄設定するのはおよしなさい。
愚か者には、脚本家の才能も監督の器の広さもございません。
心配していると言う切り札で、他人をまるであたかもアンガーコントロールや恐怖モチベーションのように支配しようとする根元には、1ミリの愛もありません。
よっぽどのお馬鹿さんか、被虐性のある人間相手にしか騙くらせないですよ、そんなもの。

当アトリエ、スタジオレインボーの親御さん達は
揃いも揃って、あなた方ほんとにヒューマンですか?ホモサピエンスですか?ひょっとして神の化身として地球に舞い降り、選ばれし新人類を育むために人間の姿をしているのではないですかっ!?
と言う位、尊く…いとおしく子供たちを見つめている。よくも悪くも私はそれが基準になってしまっているので、時に外部の家族で困惑することがあるのです。

実は8年位前から気づいてしまったことがある。
何も見えてないフリして無難にやり過ごすのも手であろう。しかし私はどこまでいっても往生際の悪い人間だ。
時に無駄に物事を追求してしまおうとする処分である。それゆえに、、見えてしまったことを素直に吐露する。

ずいぶんと長い間、一部の母親は子育てをしていない。生命をつなぐためだけの食べ物だけを与え、塾に通わせ、習い事に送り届け、気まぐれに可愛がり、個々の才能の導きや、おのおの幸せの見出し方よりも同調圧力だけに従い、生まれてきた意味や使命よりも、周りから一見きちんとしていると思われる世間体だけに気を配り、子供をペットとしかみなしていない。


子供は結論がない話でも母親に聞いてほしい。
子供は可能な限り母親に抱きしめて欲しい。
子供は結果よりもがんばったプロセスを母親に褒めて欲しい。
子供は自分の力で考えて成長したところを母親に見届けて欲しい。
子供は悲しくなった時や悔しくなったときに、どうしてそういう感情に陥ったかを母親に優しく分析してほしい。
子供は人間関係で困ったときに鶴の一声の様な解決法を母親から与えてほしい。


ずいぶんと長い間、一部の父親は子供を導く能力よりも
我が子に嫌われない振る舞いに身を費やしている。
いつまで愚かなマザコン坊やでいるつもりなのだろう。君らの中の侍遺伝子は既に全滅しているのでしょうか。
家族のATMになり下がれば父親の責任が果たせるとでも思っているのでしょうか。
父親の役割って一体なんですか?って聞かれたときに己のポリシーについて語れますか。
そしてそのために努力していることを3つ述べよと言われたときに、すらすら回答出来ますか。

父親を尊敬できない子供は世間の大人を尊敬できない。それがゆくゆくはどういうことにつながるかと言うと、人に対して最低限の敬意さえ払えないと言うことになってしまうのです。
能力が高ければ人間性がなくても生きていけると思いますか。
答えは否である。


吐出した才能や能力があり、勤め人になる必要から離れて自営業になればなるほど、仕事や生き方というのはシステマティックになりコミュニケーション能力や人徳、一般常識、思いやり、義理人情、気配り、心遣い、共感能力それらが必要になっていくのです。そしてその能力はうっかり稼げてしまった成金が決して身につけられない品性品格のように、幼い頃から培ってこないと急には身に付けられない高尚なたしなみなのです。

そして正直に言うと今年になってから、うちの生徒も生きる能力が例年に比べてすり減ってしまったことを否めない。これは子供たちのせいではない、親御さんのせいでもない、一概に誰かのせいではない。ただ責任はそれぞれ各自全くないとは言い切れない。この新しい生活形式によって生きる力が弱まっている。これは教育者として目をつぶってい問題ではない。抜本的に問題点をしらみつぶしにしなければならないのだ。私はずっとどうしたらいいか考えあぐねていた。

例えば掃除や片付けのように大人がやってしまったほうが早いこともあるでしょうよ。だからって大人が全部やってそれで解決する問題なんでしょうか。子供にやり方を教えてあげ、独り立ちするまでは一緒にやってあげ、仮に掃除の仕方が不十分だったとしてもまずは褒めてあげる、叱らず嫌な顔せず見守ってあげるそれがどれだけ大事なことかわかってらっしゃる方がとても少ないようにお見受けしました。

自分で考える力、が激減しているのである。


某はしがない街の絵画教室の講師です。
もちろん教えたいのは絵の描き方だけではなく
小手先だけの技術ではなく、制作を通してやり抜く力です。考える力です。失敗しても凹まない心の強さです。アイディア次第でなんとでもなる発想の転換力です。

しかし60分だか90分のレッスン時間で絵の技術より
絵を描くより、心を癒してほしい、話を聞いてほしい、カウンセリング的なものを求める生徒さんが最近とても多いです。それらを求めてくる子供たちは絵なんかもう描かず、手も頭も動かさずひたすら甘やかして欲しい肯定してほしい可愛がって欲しいと言う一方的な依存願望をぶつけてきます。絵画を頑張って空き時間の談笑で私に出来る生活や人間関係のアドバイスなら喜んでしてきましたよ。しかし、最近はそうじゃないのです。少し話を聞いているととめどなく溢れ崩れていく穴だらけの心。

はっきり言ってこれは由々しき問題であり、個人レベルとしてはお門違いなストレスであり、恐怖でもあります。もちろんこの狂ったご時世が関係してるとは思いますが以前からその傾向は見受けられました。


育児と保育は違います。

2つとも愛が根源にあることには間違いないのですが、家族だからこそしてあげられる事と、教育者ができる事は決して重なることのない2つの円です。

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人としてのあり方、他人に対する思いやり、どのような人生を創造して生きていきたいのか。今一度お子様と向かうべき方向性を答え合わせしていてもらえたらと思ってやみません。

さてここから本題に入ろう。
見守ることの尊さだ。


たおやかさとか健やかさとか包容力。これがどれだけ品位のある人間しか持てないことなんだと痛感したのはここ最近。

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