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< 医者の大罪 >

「 今も昔も、日本でも支那でも、人を病気にさせ、人を殺すのは医者が最も多い。(中略)病気でもないのに病気とし、軽い病気を重くし、重い病人は殺して、人の主君や、父や、子弟を長く苦しめ、あるいは死なせ、そして自分の妻子を養う。
大罪を犯しながら刑罰を免れている<医者の大罪>を、天がどうして見逃そうか ——— 」

これは江戸時代後期に名医とうたわれた中神 琴渓(なかがみきんけい)の言葉です。

当時すでに「蘭学」という形で西洋医学が入ってきていました。琴渓は「事実を尚び、実学を学べ」を門弟の教えの第一とし、「どんなりっぱな学問をこしらえても、実際に病人の役に立たなければ意味がない」と言い続けた現場の人でした。
そして「薬をまず自分の身体で試し実際に効果のあるものを取り、日夜たえまなく心を用いること。真剣に心を用いたならば、医道の真髄を知ることは決して難しいことではない」という哲学を持っていました。
「医学」という学問より、実学として学べ、という姿勢は、サトルアロマセラピーの世界にそのまま通じるので、激しく同意します。
精油クレイといった自然療法の薬剤は日常的に使っていいものなので、普段から自分が使ってよかったものを受講生やクライアントにすすめます。いや、そうでなければ伝わらないのがこの世界だといえるでしょう。

貝原 益軒の「養生訓」の中にも、薬(漢方)の使い過ぎを諌めるくだりがあります。質の良くない薬は返って体を傷めるから、薬はほどほどにせよと。この時代からもそうなんだな…と思います。

そして琴渓の「真剣に心を用いよ」という言葉にも深い含蓄を感じます。クライアントに対する惻隠の情(思いやり・哀れみ)やクライアントの精神状態を理解することが病(の原因)を知り、治療の助けになると…症状は常に心身相関的なものであると…告げているように思うからです。

冒頭に挙げた<医者の大罪>の言説に出会ったとき、ああ、医者というのは昔からそうなんだ…現代医学にはじまったことではないんだ…と感慨深くなりました。

小学校高学年の頃はブラックジャックの影響もあって、漠然と「医者になろうかな」と思っていたし、19歳で父を末期がんで亡くしたときも、医大病院の若いインターンの先生達にあれこれ尋ねてまわり、今では後悔していますが父の病理解剖も許したし、ちょうど浪人生でしたから、最後の挨拶に行ったときに「君は医学部に来るんだね。待ってるよ」と送り出されたのでした。
結局、さらに1年浪人して美大に進み、プロダクトデザイナーになる道を選んだのですが、巡り巡って今また癒しの仕事に就いてるのは因果なものです。小6の時になりたかったものは叶ってしまうっていうのは本当なんだなと思います。
同時に、現代医学の医者にならなくて本当によかったとしみじみ思うのです。
2019年の暮れに元妻が乳がんの転移で亡くなり、その思いは一層強くなりました。頭ではわかっていたつもりでしたが、がんという病態ではなく、がん治療で殺されてしまうと身に沁みてわかったからです。

現代の医者や製薬業界は、“健康”を喰いものにするビジネスマン———
残念ながらこう言わざるを得ません。
もちろん高い志を持つ医者や医療関係者もいるのは知っています。ですが一般論として、仕組みとしてそうなっている。病人はメシの種ですから、病人はいてもらった方がいい。毎週通ってくれる方がありがたい。治ってもらっては困る。実際、病気を治せないヤブ医者ほど儲かるというのは不条理ですが、現実にはそうなっています。
現実的ではないにせよ、いっそ出来高制にしたらどうかと思うくらいです。治った時にはじめて対価を払う、結果に対して報酬をいただく、その方が「技術料」として正当ではないですか? 
そうすれば、実力のある医者の方が繁盛します。

そもそも医療という業界は「構造不況」のはずです。
儲からないし、儲からなくていい。
病気を治せば治すほど病人は減ります。医者という仕事が、仮にこの世から病気を無くすためにあるのだとすれば、仕事をすればするほど仕事が減るので、本来構造不況なのです。でもかつてほどではないにせよ、実際医者は高収入の職業とされますし、医者も増えているし、病院も増えているし、病人も増えている。
これは何かが間違っているからでしょう。
ここに日本の国家予算と医療費負担の数字があります。

1975年   国家予算:21.5兆円(うち国家歳入16兆円)
     医師の数:13万人
     がんで亡くなる人:13万人(この年のがんの罹患者20万人)
     医療費(医療保険負担):6兆円

2017年   国家予算:94兆円(うち国家歳入56兆円)
     医師の数:30万人超
     がんで亡くなる人:37万人(この年のがんの罹患者101万人)
     医療費(医療保険負担):41.5兆円

1975年はオイルショックがあった年で、予算額が大きく縮小しています。1976年度の国家予算が25兆円まで増えているので、前年分を補填する意味があったとしても、本来なら24兆円程度はあったかもしれません。そうすると国家予算に対する医療費の割合は25〜28%になります。
2017年度は、医療費負担がはじめて40兆円を超えてニュースになった年です。がんで亡くなる人の数字は2015年度のものです。
国家予算は約40年で4倍まで増えています。歳入も3.5倍です。インフレ率も当然考慮に入れなければなりませんが、この間人口は1割も増えていませんし、ほぼ貿易黒字だったことを考えると、それだけ日本が豊かになったと言えるでしょう。後半の30年はデフレ政策のおかげで国民の購買力は下がりましたが…
医者は2倍強に増えていますが、一方でがんで亡くなる人も3倍弱まで増えています。がんの罹患者に至っては5倍です。生涯で二人に一人はがんになり、三人に一人はがんで亡くなる時代が来るなんて、40年前の日本人に想像できたでしょうか
そしてこの40年で医療費は約7倍になりました。国家予算に対する医療費の割合は44%にまでなっています。そろそろ半分に迫ろうという勢いです。

これを見た瞬間に気がつかないといけません
「あ、現代の医療のあり方は根本的に間違っている」と

もう少し現実的な数字に置き換えてみましょう。例えば、うちのお父ちゃんまあまあ稼ぎが良くて手取りで月56万円もらっています。でもこれでは家族全員を養っていけないので、お母ちゃんはパートに出て、子供たちもバイトの収入を家に入れてもらい、40万円弱を補填して月94万円にして生活しています
実際のところ政府も国債を発行し、国民から借金しています。それも9割以上を国民が持っている(実際は日銀と各銀行がメインですが)ので、同じ家計の家族から借りているのと同じです。国債の利子の支払いは国家予算のうち20兆円ほどです。バイト代を入れてくれる子供達に少しずつ返済しているわけです。この例えが分かれば、日本が借金で財政破綻するはずがないことがはっきりします。
とは言えこの家、家族みんなが病気持ちなので、治療代に月41万5000円もかかっているのです。これでは到底やっていけません。
本当にこんなに医者と薬にお金を使う必要あります? おかしいですよね。こっちが治ったと思ったら今度はこっちと、ずっと医者通いじゃありませんか? そんな治療はボッタクリのヤブだから、もうやめた方が良くないですか?という話です。

でも残念ながら我が国では、西洋医学にしか保険が適用されません西洋医学一辺倒なのは先進国の中でも今や日本だけです
日本は元々東洋医学の国ですし、漢方や針灸のように伝統療法が残っています。「あはき法」のように国家資格制度もある。それなのに医者が処方する「ツムラの漢方」くらいしか保険がきかないのは本来おかしいし日本は代替医療の方面で非常に遅れているのです。
「いずれ日本も欧米諸国のように代替療法にも保険が適用されると思いますよ、あと15年もすれば…」講座の中でそう言い続けて、もう20年以上経ってしまいました。医療関係者以外にも診断や治療の一部を担う「民間療法士」の資格も、米国に倣って制度化されるかなと思っていましたが、未だその気配は全くなし…
そもそも代替療法は1970年代半ばから、欧州を中心に自然療法の復活を目指した市民運動があって徐々に認められた経緯があります。当初は既存の医学界からの風当たりが強かったといいます。何度も潰されかけながら25年近く地道に活動した末に、90年代以降のアロマセラピー、ホメオパシー、ハーブ療法等の復権があったわけです。
「権力者と戦って自由を勝ち取る」という歴史は我が国にはありませんし、日本人は基本的に抗議活動や市民運動を好みません。
お上の言うがままというのは、現在のマスク社会が象徴しています。
これは皇室と民衆が共に支え合う「君民共治」の歴史や、「相互信用社会」という恵まれた環境の中で培われた文化なので、素晴らしい面でもあるのですが、従順でお人好しな国民性をいいことに、既得権益層が生まれやすい傾向があります。
医療業界は100兆円を超える市場ですから、今や利権でがんじがらめです。
我が国は歴史的に何度も官僚主義的に陥ってきました
。今回の利権構造も政治制度の大きな変革がない限り変わらないでしょう。
既得権の中心にいるのはおそらく製薬会社です。今や大企業のほとんどが外資に買われていますから、国民保険制度のある日本市場など格好の餌場でしょう。
この2年間で組まれたコロナ関連予算70兆円のうち、使途不明があまりに多いといわれています。支援金等で国民に還元されたのは10兆円そこそこで、残りは製薬会社をはじめ、国外に流出した可能性が高い。公表されていませんが、政府が調達した8億回分に及ぶワクチンに一体いくら払ったのか知りたいところです
これが明るみに出ても日本人は黙って見過ごすでしょうか?

化学薬品は、基本的に人を健康にしません
自然療法の世界にいると良くわかるのですが、誰に対しても同じように効くというのは本来おかしいのです
自然な薬剤というのは、人によって効き方が変わってきます。体質によっても、症状の経過によっても効き方が変化し、その都度処方を変えながら様子を見るものです。この人によく効いたから、この人にもいいとは限らない。
ですから現場の経験が重要で、実地で試行錯誤し、経験を積みながら一人前の治療家になっていきます。伝統療法、民間療法と呼ばれる世界はみんなそうです。
伝統療法は皆基本的に経験療法ですから、琴渓が言うように知識ではなく、経験の積み重ねが大事です。誰か師について現場で学び、自分や家族で試してみた経験がその人のキャリアになっていきます。
いずれにせよ薬に「草冠」がついているように、長い歴史の中で「くすり」と言えばほぼ「薬草」しかなかったのですが、一方で石の薬も確かにあったといいます。

信州にいた頃、かなりお年の方から聞いた話で「死にそうになったら、石を飲ませろ」というのがあったといいます。もう薬草が効かない、放っておいたら死んでしまう。そんなときに試しに飲ませたというのです。
石の薬つまり鉱物的な薬です。それが何だったのか、今となってはもっと詳しく聞いておけば良かったと後悔していますが、どうやらヒ素化合物や硫化物のような重金属的なものらしいのです。つまり劇物をあえて飲ませるという処方です。劇物を飲ませることで、症状が劇的に変化することを狙っているわけです。
しかし劇物ですから、そのせいで死んでしまうかもしれない。でも放っておいてもどうせ死んでしまうし、一かバチか試してみようというアプローチです。
「毒をもって毒を制す」という言い方が残っているように、古くから抗菌薬には確かにそういう側面があります。
後になって自分で調べて、これを「薬石膏薬」「薬石」のことかと思ったのですが、実は薬石とは「河原で拾った丸石を火鉢で温め、布で包んでお腹等に当てる」というもので、今でいう「ホットストーン」の手法です。石を飲ませてはいません。
最後に行き着いたのが、歴史的な存在としての「辰砂(しんしゃ)」というものでした。鮮やかな赤色の液体で、歴史的に不老長寿の妙薬とされた鉱物です

「辰砂」の結晶 Wikipediaより

支那ではこれを不老長寿の薬とされ、秦の始皇帝もその粉を飲んだといいます。別名は「丹(に)」です。支那では「錬丹術」といって「丹」を扱う術師がいました。現在の湖南省あたりはかつて「辰州」と呼ばれました。そこで採れるので「辰砂」です。日本でも「丹」が産出する村を「丹生(にう)」といい、産出する地域に「丹」の字をつけて「丹後」「丹波」といった地名になりました。
実はこれ硫化水銀(HgS)です。そして猛毒なのです。
防腐剤としても知られ、古墳時代の棺の内側にも塗られています。水銀は熱していくと固体になり、さらに熱すると液体になり、さらに熱すると固体になりとこれを繰り返すので、輪廻や再生を象徴する神聖な物質とされたといいます。
別に騙すつもりはなかったのかもしれませんが、大ホラ吹きの支那人に乗せられて、日本でも当時の皇族がありがたくいただき、そして多くの天皇が短命で亡くなりました
ではなぜ飲み続けたのか…? 今となっては推測の域を出ませんが、ごく少量であれば体がシャキッとしたらしいのです。これは明らかに劇物に対する「反射作用」ですが飲んだ人は元気が出たと感じたのでしょうごく微量だと交感神経の亢進等、体の防御反応の方を強く感じてしまうためです。
でも常用すれば、当然中毒作用が出て、体が蝕まれていきます。当時の人は病原菌の存在も知らず、死因も様々でしたから、因果関係が分からなかったと思われます。迷信をありがたがるあまり、疑うことすらしなかったのかもしれません。ワクチンをありがたがる現代人のように…

生命体にとって、金属元素は基本的に劇物です。無機物としての鉱物は基本的に口にしない方がいい「塩」は例外ですが、これも純度100%の「塩化ナトリウム」だと劇物化します。炭化水素化合物、いわゆる有機物は食物として問題ありませんが、純度を上げていくと、つまり精製すると劇物的な作用が出てくるのです。白砂糖がいい例ですし、アヘンよりモルヒネが、モルヒネよりヘロインがより劇物化するのも同じ理屈です。
では「化学薬品」はどうでしょう。かつては松ヤニや麻の実から合成できた薬品や樹脂も、より簡単に合成できるという理由で石炭に、そして石油へと変わっていきました。今では「化学」とつけば基本的に石油由来という意味です。全ての原材料が石油でなくとも、加工・合成の過程で石油由来の物質が使われていると見ていい。「化学(ばけがく)」の世界では「有機化学」の「有機」も石油由来を指す言葉です
ちなみに石油は「石の油」と書きます。「植物油」に対する「鉱物油」ともいいます。つまり鉱物的な存在です。石油の成り立ちはまだはっきりしていませんが、太古の微生物の死骸が、地中の高い圧力と温度の中で長い年月をかけて熟成したものとされています。でも大地から取り出した時点で、それは鉱物的な存在になっているそこから精製、合成したものは全て「石の薬」つまり「劇物」ではないでしょうか?

「化学薬品」は誰に対しても同じように効きます。これは「劇物」だからです。ですから量を増やすと途端に毒になります長期使用すると当然毒性が強くなります「劇物」ですから「主作用」に対して「副作用」があります「主作用」は
人間が勝手につけたものです
たまたま都合がいい作用機序を見つけてそう呼んでいるに過ぎません
効いていると感じるのは、化学物質が生理機能をストップさせるからです。熱を下げる、咳を止める、炎症を止める、全て生理作用を抑制する方向に働きます。でも決して症状を治しているわけではありません炎症を止めるというのは、時として「治癒反応」を止めてしまっている場合があります。
かつて20代の頃、風邪をひきかけて微熱が出たので、早めに風邪薬を飲めばいいと思って「ルル」を飲んだら、返って風邪が長引いた経験があります。10日近く微熱と鼻水でズルズルさせてながら「早めに薬を飲んだのに、どうして…?」と思っていました。同じことを三回くらいやったでしょうか。
これは後になって気がつきました。あれは自然治癒力が発動する前に風邪薬を飲んでしまったので、返って治癒力を落としてしまって風邪を長居させてしまったんだ…と。38度以上になるとリンパ系の免疫が活性します。免疫が活性するとウイルスの繁殖を抑える38度まで体温を上げる、と言い換えてもいい。結局、風邪を治すのは自分の自然治癒力であって、風邪薬はその「治る力」を邪魔していたわけです。
今なら「総合感冒薬」って何?と思います。ただ咳を止めるだけ、熱を下げるだけ、喉の炎症を抑えるだけで、風邪薬などこの世に存在しないよ、と。

そもそも「自然治癒力」を高める「化学物質」はこの世に存在するでしょうか?
講座の中で繰り返しこの質問をしてきましたが、おそらく「それは存在しない」が答えでしょう。
石油由来の化学物質は自然界に循環しません。それを分解する手立てがないから(分解できる微生物がいないから)です。人体も自然の一部なので、それを分解・処理することが難しいのでしょう。そしてそれが体内に残留することで、さらに慢性毒として作用することになります
つまり「化学薬品」とは「劇物」をごく微量処方することで、様々な生理機能をコントロール(主に抑制)し、結果として症状をコントロールするもの、と定義できますその知識が膨大に蓄積されたのが現代医療であり、西洋近代医学の終局的な姿なのです

ここでもう一つ触れておきたいのが、パラケルサスという錬金術師です。彼は当時の医学を迷信として権威に反発し、バーゼル大学等、当時の最高学府を転々としながら独自の道を貫いた傑物です。梅毒の処方にはじめて鉱物薬を使うなど、所謂「石の薬」にこだわりました。彼は近世以降に生きたの本物の錬金術師と呼ばれ、モデルとなったキャラクターが度々映画に登場するほどの有名人です。
錬金術師は金を錬成するという目的の他に、もう一つ重要な使命がありました。
それは「賢者の石」という万能薬を錬成することでした。「四大元素」を統合・超越した「第五元素(クインテッセンス)」とも呼ばれ、赤い色の金属物質とされたのです。彼はこれを錬成できた唯一の人物として伝説化しています。
大陸の文化はつながっていますから、この「賢者の石」伝説は、おそらく「辰砂」が元になっていると見ていいでしょう。
当時の薬といえば、たとえば「刀傷にはマムシをオイルに漬け込み、それを塗れば良い」といった迷信が蔓延っていました。当時のヨーロッパは衛生的に非常に問題があり、「黒死病」や「腸チフス」といった疫病が流行ると大変な被害がありました。後にこれが消毒薬としての化学物質の利用につながります。
「錬金術」はキリスト教の価値基準では異端とされ、錬金術師は一部を除きアンダーグラウンドな存在でした。王侯貴族や大商人がパトロンについて、地下室でグツグツとやっていたわけです。
錬金術師は「アルケミスト」と呼ばれます。錬金術は「ケミストリ」です。
彼らは近代に入ると「化学者」と呼ばれるようになり、歴史の表舞台に出てきます。今でも化学的という意味で「ケミカル」といいますが、これはつまり「錬金術的な」と言っているわけです。「化学(ばけがく)」はそもそも「錬金術」の訳語ですから、本来は「錬成学」と呼ぶべきものです
もともと西洋医学には「賢者の石」信仰というか、鉱物薬に対する思い入れが強いと見ていいでしょう。そして病原菌を殺すための殺菌剤として化学薬品が登場してきます「化学薬品」を後ろ盾にした「西洋近代医学」の発展がここから始まります。そして現在、化学薬品で薬づけになった現代の医療の見るにつけ、私は「パラケルサスの悪夢を見ているようだ…」という目眩を覚えます

近代西洋医学は「自然治癒力」というものを一切考慮しません
医学部に入ると、最初に医学の始祖と呼ばれる「ヒポクラテス」を学び、そして傷の自然癒合を学ぶのだそうです。でもその後、自然治癒力という言葉は一度も出きません。90年代に帯津先生の本でこれを知ったときは、非常に驚いたものです。実際、医学用語辞典には「自然治癒力」という言葉は存在しません。「自然治癒力」は医学用語ではないのです。

私たち自然療法家は「自然治癒力」をベースに治療します。「自然治癒力」とはその名の通り「自然」に「治る」ちからです。「生命力」と言い換えてもいい。
人間は常に「健康」になろうとする力が働いている、だからそれをサポートすればいいと考えます。病気が治らないのは、この「健康になろうとする力」を何かが妨げているので、その何かを見つけてそれを取り除けば自ずと治ると見ているわけです。そのために自然治癒力を高めるアプローチを考えます。それが休息であったり、生命力を賦活する食であったり、生命力を賦活する薬剤であったり、その人の自然治癒力を高める処方をするわけです。
「自然治癒力」があるとは、敷衍(ふえん)すると「人は死ぬまで健康でいられるように出来ている」と言っているに等しい
そして「自然治癒力」「自己治癒力」と言い換えられます。つまり「自分で自分を治す力」です治すのはその人 本人です。治療家はそれをサポートしているに過ぎません

しかしこれを西洋医学の医者から見ると全く別のものになります。
つまり人間は放っておくとすぐに壊れてしまうので、常に医者がメンテナンスし、治さなくてはいけないと見えている。だから医者は「私が治している」と思っているし、クスリが治していると思っている。患者も医者やクスリに「治してもらう」と思っている
この一点だけでも、自然療法と西洋医学には越えられない深い溝があります。そういう意味で、代替療法と西洋医学は相容れないわけです。
東大の先生が「統合医療」と称して、西洋医学を軸に、様々な代替療法、自然療法を取り込んだ総合的な医療を目指していますが、おそらく上手くいかないでしょう。それは西洋医学を軸にしているからです。
別に西洋医学を否定するつもりはありませんし、診断の技術や、外科手術の技術的進歩は目覚ましいものがあります。しかし仮に総合的な医療を進めるなら、軸に持ってくるべきは「自然治癒力」であり、西洋医学は傍に退いてもらわなくてはなりません。そして化学療法はその体系から外す必要があります。もしそれを使うなら、それは「死にそうになったとき」だけでいいでしょう。
「死にそうになったときは石(化学薬品)を飲ませろ」です
これまでの膨大な化学薬品の知識は、大量出血や痛みや炎症でショック状態が起こった等、緊急のときに役立てればいいのです。

西洋医学一辺倒の時代はいよいよ終わりです
その終局のチャイムが聞こえるのは、ワクチン政策がとどめを刺したからと言えます。同時に医者に治してもらおう、クスリに治してもらおうという人々の意識も変わる必要があります

現代の医者や製薬業界は、“人の命”を喰いものにするビジネスマン———
残念ながらこう言わざるを得ません。
すでにがん治療などにその傾向がありましたが、ワクチンは健康な人にも化学薬品という劇物を注入するという暴挙です。しかも重篤な副作用があると分かっていました。
これは計画的な犯罪であり、医療の名を借りた大量殺戮、大量傷害事件です
。そして多くの病院で、多くの医者がその殺人、傷害事象に加担しました
政府や官僚からの指示があり、その背景には超国家的な犯罪組織があるとは言え、金と保身のために、同胞の命を売った罪は重いと言わざるを得ません。
これが明るみに出ることで、既存の政府、官僚機構、そして医療体系が根本から信用を失うでしょう
そして残念ですが、彼らには法的な償いをしてもらう必要があります。
そのとき人々はやっと「パラケルサスの悪夢」から解放されるのかもしれません。

追伸;
それにしても、ワクチンの因果関係を頭ごなしに否定する医者ってなんなのでしょうどこかから通達が出ているのでしょうか?
それとも分かってやっている後ろめたさや自己欺瞞から来る、犯罪者の心理でしょうか。本当に何も知らずに自分や家族に打ってしまった医者は、あまりの不勉強というか、医者として終わっているとしか言えませんが…


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