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『名草戸畔〜古代紀国の女王伝説』の冒頭部分を無料公開

STUDIO M.O.G./ 有限会社スタジオ・エム・オー・ジー

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名草戸畔〜古代紀国の女王伝説

第一章 謎の女王と里の伝承

プロローグ
 この作品は、名草地方(現在の和歌山市と海南市)で語り継がれてきた古代の女王・名草戸畔(なぐさとべ)の伝承をもとに構成したものだ。
 名草戸畔(なぐさとべ)とは、紀国(現在の和歌山県)におよそ二千年前に実在したと思われる女性首長のことだ。『日本書紀』に、ひと言だけ、神武に殺されたと記されている。土地には、名草戸畔(なぐさとべ)の遺体を、頭、胴体、足の三つに分断し、三つの神社に埋めたという伝説もある。
 多くの人は、名草戸畔(なぐさとべ)は神武あるいは神武軍によって、遺体を切断されたという。ところが、わたしたちが調べていくうちに、一般的に語られていることとは違う伝承を郷土史家・小薮繁喜氏と海南市の「宇賀部神社(おこべじんじゃ)」宮司家出身・小野田寬郞氏から採集した。わたしは、この二人が見ている古代の風景を描いてみたいと考えた。
二人が語る伝承は、この土地に暮らす人たちの間で語られてきた物語だ。したがって、本書は『日本書紀』にも『魏志倭人伝』にも書かれていない「民間伝承」が中心になっている。そうした民間伝承は、史実かどうかわからないので受け入れられないという人も多い。なかにはこの本を読んで、「伝承に都合のいい資料ばかりを用意したのではないか」といいだす人もいると思う。しかし、庶民の間でこのような物語が伝わってきたことも、また事実なのだ。
 日本では、外国のネイティブ・アメリカンやアボリジニの伝承は文化として評価されるのに、自国の民間伝承や宮司家の「口伝」となると、眉唾扱いされてしまうことが多い。なぜなら日本は様々な文化を受け入れて近代化の道を歩んだため、古代の神話や伝承が原型を止めた形で残っているわけではないからだ。後世、土地の人たちや宮司家の妄想によって変形してしまった伝承もある。しかし、たとえ多少変形したとしても、伝承が根強く生き続けてきた背景には、それなりの理由があるはずだ。
 小野田氏によると、小野田家はナグサトベの末裔であるという伝承が内々で伝えられてきたという。信じる・信じないは別にして、読者の皆さんには、今まで語られることがなかった先住民たちの物語を楽しんでもらいたい。そして、幼い頃からこの伝承を聞いて育ち、自分自身をナグサトベの子孫と信じてきた小薮氏と小野田氏の心に触れて欲しい。数千年前に生きたナグサトベを遠い祖先と感じる二人の心からは、人の営みが何千年もの積み重ねの上に成り立っていることを知ることもできる。伝承は、すべて史実ではないかもしれないが、わたしたちの心にとって大切なものがたくさん含まれているのだ。
 第一章では、わたしが紀国の女王について調べることになったきっかけ、小薮繁喜氏との運命的な出会い、小薮氏の研究をもとに想像したナグサトベの姿を記した。
 これは主に二〇〇六年から二〇〇八年頃までに起こった出来事だ。

旅のはじまり

「昔、和歌山にナグサトベという女王がいたの」
 二〇〇六年三月十四日、自由が丘のカフェで友人たちと話をしていたとき、Mさんがそう切り出した。そのときのメンバーは、知人で広告代理店に勤めるMさん、友人のK夫妻、わたしが所属しているスタジオ・エム・オー・ジー社長の森内淳(以下、社長と記す)、そして、わたしの五人。Mさんは大手広告代理店につとめているOL。K夫妻は、社長とわたしが昔から知っている友人夫妻だ。三人とも日本の歴史が大好きで、Mさんは、たまに知人を集めて古代史の勉強会を開いている。
「ナグサトベ?」
 わたしは漢字がすぐに浮かばなかった。Mさんは小さなノートを取り出して「名草戸畔」と書いた。
「神武東征(じんむとうせい)のころの話なんだけどね」
 Mさんがいった。
「神武東征ってあの『古事記』とか『日本書紀』に載っている神武東征?」
「そう」とMさんはいった。
「で、その女王様がどうしたの?」
「実はね、このナグサトベについて調べてくれないかな、と思って」
 Mさんが急に真面目な顔をして、わたしにいった。
「え、どういうこと? わたしが調べるの?」
「そう」
 わたしはMさんの話をうまくのみこめなかった。
「実はこの女王様、神武東征のときに、神武に殺されているのよ。『日本書紀』にたった一行だけ、『殺された』って書いてあるの。名草の人たちも全滅したらしいの。でも、それ以上のことはわからないの。どうも、この女王様って成仏していない気がするのよね。怨霊になって今もどこかをさまよっているような気がするの」
 成仏していない怨霊とはただごとではない。
「もう七年くらい調べているんだけど、何も出てこないのよ。でも、あなたと社長が調べれば何かが出てくるような気がするの。それでね、本を書いてほしいの。ナグサトベのことをみんなに知ってもらえれば、それが一番の供養になると思うのよ」
 Mさんの話を整理すると次のようになる。
 遠い昔、神武東征のころ、和歌山にいた女王様ナグサトベが神武に殺された。そのとき、名草の人たちも全滅した。ナグサトベは無念をかかえて成仏できないでいる。もしかしたら怨霊になっているかもしれない。ナグサトベを供養する意味でも、この謎の女王様のことを調べて、本に書いて、世に出して欲しい。
「『スプーの日記』のような本が書けるのなら、きっとナグサトベのこともわかると思うの」
 Mさんはそういった。
 二〇〇五年の暮れ、わたしは、『スプーと死者の森のおばあちゃん〜スプーの日記』という本を書いた。見習い魔術師スプーが、魔術をとおして自分の心の奥を見つめ、現実と自分の間にある謎を探求するという内容だ。昔から好きで読んでいたユング心理学やシャーマニズム、神話、心霊、人類学、民俗の本の知識をもとに空想を膨らませてこの物語を書いた。ファンタジーと古代史は、少しかぶる部分はあるが、まったく別のジャンルだ。わたしは、そんなこと、できるわけがないと思った。
 ところがMさんは引き下がらなかった。
 広告代理店に勤めるMさんは、仕事柄、有名な編集者やライターに何度も会っていた。その度にナグサトベのことが喉まで出かるのだが、心の声が「この人は違う」というそうだ。ところが、この日は、わたしたちと食事をしている最中、突然、その心の声とやらが「ナグサトベのことを調べるのはこの二人だ!」といったそうだ。
 Mさんは、執拗にナグサトベのことを調べて欲しいといいつづけた。彼女の心の中では、「わたしたちがナグサトベについて調べて本を書けば供養になる」という物語が現実のこととして生きているかのようだった。端から見ると何の根拠もない妄想でも、Mさんにとって、それは真実なのかもしれない。わたしは、ふと、彼女の心の声とやらを真に受けて、本当に調べてみたらどうなるのだろう、という考えが頭をよぎった。
 そのとき、社長が突拍子もなく、こんなことをいいだした。
「どうせ『スプーの日記』シリーズを出したあとは何も予定がないし。ちょっと調べてみるのもいいんじゃないかな。次の作品のヒントが出てくるかもしれないしね。いや、実はね、偶然なんだけど、今度、和歌山に行こうかと思ってたんだよ」
 社長が手伝いをしていたあるバンドが、偶然にも五月七日に和歌山でコンサートをやることになっていた。社長はその陣中見舞いに行くつもりだった。
「これも何かの縁だろう。観光旅行だと思って行ってみようよ。何も出てこなかったら、やめるけど、それでもいいかな?」
 Mさんは「それでもいい」といった。
 こうしてナグサトベを巡る不思議な旅が幕をあけた。

物語を探せ

 名草戸畔(なぐさとべ)について調べるといっても、一体どこから手をつければいいのだろうか。古代史ファンが七年間調べても何も出てこないとなると、『日本書紀』に匹敵するような古文献が残っているとは考えにくい。地元の伝承を探すのが賢明な方法だろう。
 この場合の伝承とは、文章に書かれたものではなく、口伝えに語り継がれた神話や伝説のことだ。昔話や民話なども、かつては親から子へと語り継がれる「口承文学」だった。大げさなものでなくてもいい。ちょっとした民話のようなものが残っていれば、ナグサトベの尻尾をつかまえられるような気がした。
 わたしは子どものころ、そうした民話が大好きだった。とくに、お化けや妖怪の話に夢中になった。毎週、『まんが日本昔ばなし』をテレビにかじりつくようにして観ていた。隣家から飴をもらって赤ん坊を育てる幽霊の女や、いくら使ってもなくならない錦の反物をくれた山姥(やまんば)の話は、今でもよく覚えている。絵には、暗い山や夜の怖さがストレートに表現されていた。
 山姥は、心理学では「グレートマザー」の表象イメージとされている。山姥は「恐ろしい鬼」であると同時に「優しい母」でもある。山姥がくれた「無限に引き出せる反物」は、「母の愛」をあらわしている。また、昔話のなかではよく「悪知恵のある者」よりも「正直な貧乏人」が宝物に恵まれる場面に出くわす。これは「貧しくても正直であれば、お金に惑わされないで、物事の本質を見抜く力をもてる」ことをあらわしている。宝物は単なる物質ではなく、「心の豊かさ」を表す尺度なのだ。物語には、いつも「現世を超えた真実」が存在している。
 まだ庶民が文字を書けなかった時代、昔話は次の世代へと口伝えに伝えられた。語り部によって、ディティールが変形したりもするが、物語の「核」となる部分だけは変わらなかった。山姥の愛や闇夜に横たわる恐怖は、その本質が損なわれるどころか逆に純化されて、世代を超えて伝わっていった。そのようなナグサトベの民話が出てくれば、しめたものだ。

名草戸畔の基礎知識

 わたしは、まず、名草戸畔(なぐさとべ)の基本情報をおさえておくことにした。わざわざ和歌山まで行くのだから、最低限のことは知っておく必要がある。
 わたしは本棚の奥から文庫本版の『日本書紀』を取り出し、第三巻の「神武東征(じんむとうせい)」の項を開いた。あった、あった。たしかに、ナグサトベはたったひと言だけ「殺された」と書かれている。

六月(みなづき)の乙未(きのとのひつじ)の朔丁巳(ついたちひのとのみのひ)に、軍(みいくさ)、名草邑(なぐさのむら)に至る。則ち名草戸畔(なぐさとべ)といふ者を誅(ころ)す。戸畔(とべ)、此をば妬鼙(とべ)と云ふ。
「六月二十三日、軍は名草邑(なぐさむら)に着いた。そこで名草の女酋長(女蛮族)を殺した。」

『日本書紀』は七二〇年に完成した歴史書だ。同じ時期に編纂された『古事記』のほうは七一二年の成立で、『日本書紀』より少し古い。この二つの書物は「記紀(きき)」と呼ばれている。ナグサトベが出てくるのは『日本書紀』の方だ。
 神武東征とは、軍を引き連れた神武天皇が各地の先住民を配下にしたり、討伐したりしながら、九州から東へ移動し、大和に国をつくるまでの物語だ。要するに、王権が日本列島に中央政府をつくる過程を描いた神話だ。ナグサトベは、大和に行く途中、現在の和歌山県和歌山市で殺されたようだ。
 ナグサトベについて調べる前に、わたしは、まず、この神武東征について調べた。
 神武東征については、「王権成立を神話的に描いただけの作り話」と主張する学者も多い。理由は、この物語を裏付ける資料がないからだ。神武が天皇に即位したという辛酉年(しんゆうねん:とり年)は、干支の周期で計算すると紀元前六六○年にあたり、あまりにも古い。考古学的には、大きな勢力の出現を示唆する古墳などの遺跡は三〜四世紀以降に現れるため、紀元前六六○年に初代天皇が即位したといわれてもリアリティがないのだ。神武が天皇に即位した橿原宮(かしはらぐう)も明治時代になって建てられたものだ。史学者たちの多くは、『三国史記』など、中国の文献にも掲載されている雄略天皇(四五六年〜)あたりの記述から史実として認めているようだ。
 ところが、近年、考古学の発展によって、大陸から日本列島への人の流れが明らかになっていくなかで、次のようなことがわかってきた。
 紀元前四○○年前以降の春秋戦国時代、中国大陸の戦乱を逃れた人たちが、現在の山東省や江蘇省あたりからから日本列島に渡って来た。九州には、佐賀県の「菜畑遺跡」など、この時移住した渡来人のものと思われる遺跡がある。「神武天皇」という人物が存在したかどうかは定かではないが、こうした渡来人が、九州から大和に東征してきた可能性もある。実際、西日本の遺跡には、縄文人と弥生人が争った跡もたくさん残っている。
 神武東征の物語とは、この春秋戦国時代以降に列島にやって来た渡来人と縄文人との争い、古代から各地に伝わる伝承や史実、それから、『日本書紀』が成立した八世紀当時の政治状況などをミックスして描かれたのではないか、という見方が大勢を占めてきた。紀元前六六〇年は古すぎるが、神武東征的なる事件が起こった可能性がまったくないわけでもないのだ。
 実際、全国各地には、神武東征にまつわる伝承も少なからず残っている。こうした伝承の世界では、神武東征は「本当に起こったこと」として語られている。もしも神武東征が否定されれば、地域の伝承まで、根こそぎ切り捨てられてしまう恐れがある。各地の神武東征にまつわる伝承には、中央政権とは違う歴史観や、消されてしまった庶民の歴史が隠れている可能性は否定できない。そうした伝承まで一緒に否定されてしまうとしたら、それは不幸なことだ。わたしは、神武東征を無闇に否定する行為も、ある意味、歪んだ歴史観を生み出す要因だと思っている。伝承、記紀神話、中国の文献、考古学遺跡のどれひとつとして、切り捨てられるものはない。
 わたしは、この本のなかで、神武東征を「実際にあったこと」としてあつかっていく。便宜上、「神武」と記すが、存在したかどうかわからない「神武」に違和感を感じる人は、「すすんだ文明をもった者たち」、あるいは「神武的なるもの」と解釈してほしい。
 ということを踏まえて、もう一度、問題の一文を見ていきたい。

六月二十三日、軍は名草邑(なぐさむら)に着いた。そこで名草の女首長(女蛮族)を殺した。

 名草は地名で、戸畔(とべ)は女首長にあたる部分だ。つまりナグサトベは、「名草村の女首長」という意味だ。
 名草とは、現在の和歌山市と海南市を含めた地域を指す。神武軍(=大陸からやって来た人たち)が討伐しに来たと解釈すると、ナグサトベと名草の人たちは、縄文の昔から名草地方で暮らしていた先住の豪族だったと想像できる。この記述によると、彼らは神武軍にあっさりとやられてしまったようだ。それが後に、怨霊説に結びついたのだろう。

遺体を切断された名草戸畔

「ひとつだけ言い忘れたことがあったの」
 ある日、Mさんから電話があった。なんでも名草戸畔(なぐさとべ)にまつわる民間伝承がひとつだけ残っているそうだ。
 それは、神武に殺されたナグサトベの遺体を頭・胴体・足の三つに分けて、頭を「宇賀部神社(うかべ神社、通称:おこべじんじゃ)」、胴体を「杉尾神社(すぎおじんじゃ)」、足を「千種神社(ちぐさじんじゃ)」に埋めたという伝承だった。
 これらの神社は、和歌山県海南市に実在している。現在、「宇賀部神社」は頭の神様で受験の神様に、「杉尾神社」は腹痛に、「千種神社」は足の病気に効く神社として知られている。
 インターネットをながめてみると、ほとんどの人がこの伝承をオカルトチックな解釈でとらえていた。ある人は「ナグサトベが強力なシャーマンだったため、その力を分散しようと、王権側の人間が遺体を三つに切り刻んだのだろう」といい、またある人は「王権が、神武東征で生き残った名草の民衆への見せしめのためにやったのだ」という。これがMさんの怨霊説の源泉にもなっているようだ。
 しかし、わたしは、このオカルト的な解釈に違和を感じていた。なぜなら、ナグサトベ遺体切断伝承は、インドネシアのセラム島に伝わる「ハイヌヴェレ神話」によく似ていたからだ。
 ハイヌヴェレ神話とは、一体どのようなものなかのか。大林太良・著『神話の話』(講談社学術文庫)を参考に要約すると次のようになる。

 セラム諸島の村に、アメタという独り身の男がいた。アメタは、ある日、夢のお告げにしたがって、死んだ猪の牙に刺さったココヤシの種を地面に埋めた。ココヤシの木は、あっという間に大きくなった。アメタがココヤシの花をナイフで切り取ろうとしたところ、あやまって手を切ってしまった。すると、アメタの血がついた花が、少女に変化した。アメタは、その少女をハイヌヴェレと名付けて育てた。しかし彼女は、普通の人間ではなかった。彼女が排出する大便は、中国の陶磁器など、高価な宝物だったのだ。アメタは、すぐに大金持ちになった。
 ある日、アメタの住む村で、九日間つづく祭りが催された。二日目の晩、ハイヌヴェレは村の人々にサンゴを渡した。村人は、美しいサンゴを喜んで受け取った。次の日は中国の磁器の皿、その次の日はもっと大きな陶磁器という具合に、高価な宝物が次々に人々に分配された。すると、人々はだんだんハイヌヴェレを不気味に思い、あげくにアメタを嫉妬するようになった。そして、とうとうハイヌヴェレを殺して地面に埋めてしまった。
 ハイヌヴェレが帰らないのを不審に思ったアメタは、占いをして、彼女が殺されたことを知った。アメタは、彼女の死体を掘り出し、それを細かく刻んであちこちに埋めた。するとそこから様々な種類の芋が生えてきた。以来、人々は、芋を主食にするようになった。

 これと同じような神話が、『古事記』の「大気都比売神話(おおげつひめしんわ)」にも見られる。

 須佐ノ男命(すさのおのみこと)が、大気都比売(おおげつひめ)に食べものを求めた。すると大気都比売は、鼻や口や尻から、美味しそうな食べものを取り出した。その様子を見ていた須佐ノ男命は、「口や尻から食べものを出すとは汚い」といって怒り、大気都比売を殺してしまった。すると殺された大気都比売の体から、次々に食物の芽が出てきた。頭からは蚕、目からは稲の種、耳からは粟、鼻からは小豆、陰部からは麦、尻からは大豆。これが五穀の元となった。

 女神が殺害されて芋や五穀が発生するという神話は、このように、世界中に数多く分布している。これらの神話は、セラム島の神話にちなんで、「ハイヌヴェレ型神話」と呼ばれている。
 神話=フィクションという印象もあるが、文化人類学では、古代人は最初からフィクションとして神話や物語を生み出したわけではなく、物語のなかにあるような「儀礼祭祀」を実際に行っていたと考えられている。
 社会人類学者のジェームズ・フレイザーの『金枝篇』(ちくま学芸文庫)には、古代の西欧における王権交代の儀式で、先代の王を殺すことで、新しい王の就任が認められた話が出てくる。 また、大林太良は、日本全国の民話にハイヌヴェレ型神話に似た物語が数多く残っていることを指摘して、「古代では、実際に、こういった儀礼が行われていたのではないか」(『ゼミナール日本古代史・上』光文社)と推測している。各地に残る「嫁殺し田(よめごろしだ)」の伝説が、その例だ。要約すると次のようになる。

 姑が嫁に一日で田植えを全部すませるように命令した。嫁は必死で田植えをするが、あともう少しというところで日が暮れてしまった。すると嫁は、気を落としてそのまま死んでしまった。その後、その田からは水が湧き出して池となり、どんな日照りでも干上がることがなかったという。

 これは、田植えのときに女が非業の死を遂げると、結果的に「人身供儀」となり、田の豊穣が保証されるという物語だ。大林太良は、「古代において農耕儀礼として女の殺害を伴った祭儀が焼畑にも水田にも行われていたものが、今日では水田に関して、このような伝説の形となってわずかに記憶をとどめているに過ぎなくなったのではないか」と記している。
 ナグサトベの遺体切断伝承も、五穀豊穣を願って、遺体を切断されたと考えることができる。江戸時代の和歌山の地誌『紀伊續風土記(きいしょくふどき)』によると、「宇賀部神社」と「杉尾神社」に稲の神「宇賀之御魂(うがのみたまのみこと)」が祀られている。「杉尾神社」には豊穣を表すご神木があるという。
「名草を支配した神武軍は、なぜ、敵方の大将を豊穣の女神として祀ったんだろうか?」
 社長はそういった。
 たしかに、神武東征が『日本書紀』通りだとすると、王権が敵のナグサトベを豊穣の女神として祀るのはおかしい。ハイヌヴェレ型神話の本質は、人身供儀によって民衆に豊穣が保証されるというものだ。ハイヌヴェレを殺したのはアメタの住む村の住人で、遺体を切断したのはアメタ自身だ。大気都比売(おおげつひめ)を殺害したのは、同じ立場の神・スサノオ。「嫁殺し田(よめごろしだ)」では、女が非業の死を遂げる原因を作るのは、同じ農民である姑だ。ナグサトベを殺害して遺体を切断したのは、王権側ではなく「豊穣の恩恵を受ける地元の人たち」でなければならない。
 ところが『日本書紀』には、神武がナグサトベを殺したと書いてある。神武に殺されたあと、地元民が遺体を引き取って祀ったのだろうか。
「だとしても、王権のお膝元の和歌山で、敵方の大将を豊穣の女神として祀るのをやすやすと見過ごすだろうか。自分たちの神様をもってきて、祭神を上書きするのが自然なのでは? 豊穣の女神が怨霊になるのもおかしいし」
 社長はそういった。
 わたしは遺体切断伝承を知ったときから、怨霊説には違和感を感じていた。もしもナグサトベが怨霊になっていたとしたら、三つの神社に「塚」が残っていてもおかしくはない。
 奈良県御所市「一言主神社(ひとことぬしじんじゃ)」にも、先住民の遺体を三つに切断して埋めたという伝承が残っている。神社には、「土蜘蛛塚(つちぐもづか)」と呼ばれる「塚」が建っている。「塚」は、殺された者や狩りをした動物の霊を供養するための石碑を意味している。つまり「土蜘蛛塚(つちぐもづか)」は、殺された先住民の怨念を供養する意味で建てられたものだ。
 他にも大分県宇佐市の「宇佐神宮(うさじんぐう)」の「隼人塚(はやとづか)」がある。中央政権に刃向かって殺された隼人族を弔うためのものだ。東京には、平将門の怨霊を鎮めるために建てられた「平将門の首塚」がある。ところが、「名草塚」は見当たらない。
 では、「宇賀部神社(おこべじんじゃ)」、「杉尾神社(すぎおじんじゃ)」、「千種神社(ちぐさじんじゃ)」自体が、怨霊を鎮めるために建てられたのだろうか。果たして、そんな神社が受験の神様になったり、お腹や足の病気が治る神様になるだろうか。平将門の首塚へ合格祈願に行く受験生はいないだろう。ナグサトベが「豊穣の女神」だったからこそ、人々は幸福を願って神社へお参りするのではないだろうか。
 しかし、ナグサトベが神武に殺されたのも事実だ。ハイヌヴェレ型神話を内包する三つの神社と『日本書紀』の記述は矛盾している。それともこの矛盾した二つの事象をつなぐ「パズルのピース」のようなものがあるのだろうか。

名草王国の盛衰

 ある日のことだった。インターネットの古書店をサーフしている最中に、『名草王國の盛衰』という本を見つけた。わたしが調べるまでもなく、すでにナグサトベ研究は本になっていたのだ。
 本は数日後にやって来た。封を開けると、そこからB六版の古書が一冊出てきた。
 紫色の表紙には『名草王國の盛衰』と記されていた。表紙の中央には金色で縁取られた鳳凰が描かれていた。裏表紙には龍がデザインされ、ページをめくると白い光沢紙にモノクロの写真が散りばめられていた。文章量はさほど多くなかった。折り返しには紀伊国造家・紀俊嗣氏と当時の和歌山県教育長・井上光雄氏のコメントがそえられていた。
 著者は名草杜夫(なぐさ・もりお/後で調べたら、ペンネームだということがわかった)氏。発行は回天発行所。刊行は、昭和五〇年(一九七五)。一八七ページで構成されていた。本はとっくに絶版になっていた。著者もすでに亡くなっていた。
 著者は、フィールドワークと聞き取り調査を元に、名草山が神奈備山(神様が宿る山)であることを証明していた。半分以上は、紀氏(きし/中央政権が確立したあとで、紀州をおさめたとされる豪族)についての記述。前半の所々にナグサトベに関する記述があった。わたしが気になった記述を、二つ抜粋して紹介する。

一・最近、ルバング島の日本兵、小野田寬郞元少尉の帰国で、その氏神「宇賀部両大明神」のことも紹介されて、全国の皆さんも小野田家はその神官の家柄であることはご存知のことと思う。(中略)こん日、小野田元少尉のことについては、もう随分書き尽くされ、語りつくされたように思っていられる人も多いことと思うが、本当は、この神様のことが書かれなければ、小野田氏が三十年ルバング島で辛苦を重ねた秘密がわからないのである。(ここまで序文から抜粋/以下、ナグサトベ伝説から抜粋)古代の紀州を歩いて貰はなければ小野田元少尉の深層心理は解せないといったのは、このナグサトベの伝説を指しているわけである。

二・一説には、ナグサトベの死を悼んだ土民たちは、このときその亡骸を三つに分断して、頭は海南市の小野田に葬られて「おこべさん」となり、現在の、ルバング島の小野田寬郞元少尉の氏神である「宇賀部両大明神」がそれである。(中略)筆者はナグサトベの残党がこの地に逃げ、そこに永住してナグサトベの霊を祀ったのではないかと思っている。

 二つめの文章では、神武に殺されたナグサトベの遺体を、小野田に逃げた残党たちが三つに切断し、それぞれ埋めたのだろう、と推測している。なるほど、そういう見方もできるのか。しかし、名草の残党が東北地方に逃げ延びたというのならわかるが、小野田は名草山からほんの数キロしか離れていない。思いっきり名草の土地だ。どうして王権が支配した土地の目と鼻の先でハイヌヴェレ型神話が発生したのだろうか。
 気になるのは一つめの文章だ。
 小野田寬郞(おのだひろお)氏は、ご存知のように、日本の敗戦を知らされずにルバング島に約三十年の間、戦っていた。小野田氏が帰国命令を受けたのが一九七四年三月九日。わたしが四歳の誕生日を迎えた、ちょうどその日だった。小野田氏のニュースは瞬く間に日本中を駆けめぐった。「宇賀部神社」はその小野田寬郞氏の実家だったのだ。文章のニュアンスから察するに、小野田氏はナグサトベの真相をつかんでいるような印象を受ける。しかし、名草杜夫氏は小野田氏にはコンタクトできなかったようだ。名草氏がキーにあげた「宇賀部両大明神」の正体や「小野田元少尉の深層心理」の詳しい内容は、この本には記されていない。
 その他の部分で興味深いのは、昭和五〇年当時の聞き取り調査だ。『日本書紀』には登場しない貴重な話ばかりが掲載してあった。とくに神武東征のくだりは面白かった。「神武軍が毛見ノ浜(けみのはま・浜ノ宮海岸)に上陸して名ナグサトベと戦った入り江を、『コトが起こる』という意味で、『琴の浦(ことのうら)』と呼ぶようになった」とか「神武軍が船を前進させるように見せかけながら、船尾から接岸したので、『船尾(ふなお)』という地名が生まれたこと」など、戦闘の細かいシチュエーションが記されていた。神武東征を否定する学者も多いが、一九七五年当時、和歌山にはこのような具体的な伝承がはっきりと残っていたのだ。ちなみに、神武東征について、名草杜夫氏は次のような見解を記している。

 神武天皇東征のことについては、こん日、その真偽を問う人は多いが、その確固たる年代の立証は別として、この地方における伝承の到る処に存在するのをみて、往昔、なんらかの大事件が突発したことは事実であって、総べて荒唐無稽な作り事であると一笑に附するは、まことに無責任な行為であると思っている。

『名草王國の盛衰』を読むと、『日本書紀』にはない伝承が、和歌山には存在していたことがわかる。しかし、名草戸畔(なぐさとべ)については遺体切断伝承以上のものは採集されていない。一九七五年の時点で見つからなかったということは、今、和歌山に行っても何も出てこない可能性の方が高いような気がした。

名草の里へ

 今回の取材旅行が観光旅行にならないためにも、わたしは、古代史に精通している何人かの人にアポイントメントをとった。大阪在住の神奈備(かんなび)さん、和歌山在住の史学にくわしいT氏、同じく和歌山在住のフリーライターKさん、和歌山のカフェ「カンタ・デル・ソル」のHさんとOさんだ。
 カンナビ氏はインターネットで巨大データベース・サイト「神奈備にようこそ!」を運営している有名な古代史研究家だ。和歌山を中心に日本各地の神社を自分の足で歩き、そのデータをウェブにアップしている。古代史ファンにとってはカリスマ的な存在だ。何でもカンナビ氏の知り合いの方も、数年前から「名草戸畔(なぐさとべ)のことが気になる」としきりにいっていたそうだ。
 T氏は学者だ。文献を重んじる学者が民間伝承を知っている可能性は少ない。しかし識者から意見を聞くというのも大事なことだ。
 カンタ・デル・ソルのHさんとOさんは名草小学校の出身で、ナグサトベに強く思い入れている。こういう人たちから民間伝承が出てくれば面白い。HさんとOさんの取材はフリーライターのKさんがブッキングしてくれた。
 旅行日程は次の通り。

五月七日 大阪でカンナビ氏に取材。和歌山のライブハウスでKさんと合流。
五月八日 友人のK夫妻(Mさんと共に自由が丘のカフェで話をした夫妻だ)のナビゲートで、「伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)」「宇賀部神社(おこべじんじゃ)」「杉尾神社(すぎおじんじゃ)」「千種神社(ちぐさじんじゃ)」を訪問。
五月九日 T氏に取材。カンタ・デル・ソルを訪問。HさんとOさんに取材。
五月十日 東京へ戻る。

 二〇〇六年五月七日、朝、わたしと社長は東京駅から新幹線に乗り込んだ。

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名草戸畔 特設サイト:
https://note.com/studiomog_nejp/n/n239ea94490b9

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名草戸畔〜古代紀国の女王伝説著者:なかひらまい
取材協力:小薮繁喜・小野田寛郎
写真協力:小野田麻里
装幀・装画:なかひらまい
本文デザイン:山﨑将弘
発行所:有限会社スタジオ・エム・オー・ジー
判型:四六版ソフトカバー
頁数:288ページ
価格:1800円+税
コード:ISBN978-4-905273-00-4 C0039 1800E
​Amazonでの購入:https://amzn.to/30HM6al


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STUDIO M.O.G./ 有限会社スタジオ・エム・オー・ジー
有限会社スタジオ・エム・オー・ジーは小さな出版社ですが、クリエイターチームとしても活動しています。多摩美術家協会員・なかひらまい の 作品や音楽ムック DONUT を弊社で出版しながら、弊社以外でも様々な会社と執筆・編集でコラボレーションしています。