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#週一文庫「日本国憲法 」(岩波文庫)長谷部 恭男 解説

これから書くことは、あくまで読書感想文であって、いかなる政治的意見の表明でもないことを先に記します。

さて、

この本は、日本国憲法・大日本帝国憲法・パリ不戦条約・ポツダム宣言・降伏文書・日本国との平和条約・日米安全保障条約といった、日本人として一度は通読しておきたいものが収録されており、さらに長谷部氏の解説によって理解を深めることのできる一冊です。


一番おもしろかったのは、P149 解説

日本国憲法は、形式上は、大日本帝国憲法の改正の結果として成立した。旧憲法と現憲法とでは、その断絶が強調されがちであるが、旧憲法の根本原理であった君主制原理(天皇主権原理)および旧憲法の標準的な解釈枠組みであった国家法人理論は、現憲法にいたるまで深く、その影響を残している。

旧憲法と現憲法、両方の全文に目を通して似たようなことを感じました。


意外と似ている? 両憲法

学校の授業において、それぞれの憲法について教えられたとき、いずれも全文を読むのではなく、一部分だけ抜粋したものが取り上げられていました。

たとえば、旧憲法であれば

P68 大日本帝国憲法

第一章 天皇 第三条
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

現憲法であれば

P13 日本国憲法

第一章 天皇 [天皇の地位と国民主権] 第一条
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

あるいは、

P17

第二章 戦争の放棄 [戦争の放棄と戦力不保持及び交戦権の否認] 第九条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の講師は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

こういった、一部の条項のみを取り上げるかたちで、授業は行われていたと記憶しています。

だからこそ今回気になっていたのは、授業では取り上げられなかった部分の憲法には何が記されているのか。そして、それらは旧憲法と現憲法でどう違うのかということでした。

率直な感想は「意外と同じこと書いてある部分多くない?」でした。

たとえば、

P36

日本国憲法 第四章 国会
[議員の不逮捕特権]
第五十条 両議院の議員は、法律の定める場合を除いては、国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議員の要求があれば、会期中これを釈放しなければならない。

これに対して旧憲法

P75

大日本帝国憲法 第三章 帝国議会
第五十三条 両議院ノ議員ハ現行犯罪又ハ内乱外患ニ関ル罪ヲ除ク外会期中其ノ院ノ許諾ナクシテ逮捕セラルルコトナシ

もちろん、法律関連条文に詳しいわけではないので、「これでめちゃくちゃ違うのである」と言われてしまえばそれまでですが、個人的な見方では「結構似たようなことの書かれているのだなあ」という印象です。

この他にも、前置きとしての「法律ノ定ムル所ニ従ヒ」などの文言はあるにしても、旧憲法の段階ですでに、現憲法に書かれているような内容について多く触れられているのが驚きでした。

勿論、根本として「国民主権」に書き方が変わっていること自体が、大きな違いなのだと思いますが、じぶんからすれば権利の主体が誰というのとは別に「〇〇という権利」もしくは「義務」を認識し、条文に書かれていたということが今回の発見でした。


前回 #週一文庫 では、江戸 → 明治へと変わったときの書を取り上げました。
米欧回覧実記(1871年頃)


この頃にも、将軍 → 天皇陛下へと、大政奉還(1867年)によって主権の移譲がなされています。江戸時代にはいわゆる「憲法」に該当するものは無かったものと認識しています。そこから見れば、大日本帝国憲法に定められた、先に上げたような「〇〇という権利」もしくは「義務」が明文化されたこと自体が、かなり画期的だったのではないかなと思います。無かったものが出来たわけですから。

今後もこういった憲法典といったものを目の前にするときは、「どういった権利/義務」が、「誰のものとして」認められているのかということをシンプルに捉えることで、気づきを得ることができるのではと思います。



行動規範としてのルール

鶏が先か。卵が先か。そんな話をします。

「ルール」を目の前にしたとき、一番大事なのは、書いてある字面を追いかけることではなく、結局のところ行動の規範、制限としてこれらがじぶんらにとって、機能しているかということだと思います。

少なくとも現憲法は、じぶんが生まれるよりも大分前に、同じ日本という国に居た人たちが、法として定めたもの。つまりじぶんらは、生まれるよりも先に、生き方のルールが定められていたということになります。そう考えると不思議な感じがします。

では、そういった生まれる前からできていた「ルール」にじぶんはちゃんと従っているのかどうか。それはよくわからない。意識したことすら無かったのだから。でも守っているのだろうし、権利も確実に行使しているのだと思います。

ただ、そのことに関しての善し悪しを語ることはかなり難しいです。ですから、今回は、この本の中の別の場所から抜き書きしながら、今後こういった「ルール」を目の前にしたときに、せめてもの態度として「こうするつもり」ということを示します。


P61 日本国憲法 第10章 最高法規

[基本的人権の由来特質]
第九十七条 この憲法が日本国民に保証する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

P197 解説

「我々は憲法典、法律、裁判所に期待をかけすぎてはいないだろうか。それは偽りの期待である。自由は人々の心に生きる。人々の心の中で自由が死んだとき、憲法典も法律も裁判所も、全く助けにならない」(中略)「憲法のせいでアメリカの民主主義が維持されているという考えは明らかに逆立ちしている。我々の社会の本質が民主的であるからこそ、憲法典は維持されてきたのだ」と指摘する。

いかに行動するか、最後は個々人が自分で考え、自分で判断するしかない。生きるとはそういうことである。戦前の体制下において、天皇の命令に従うべきか否かが、憲法の条文のあり方や天皇機関説の当否に依存していたわけではなかったことと同じである。憲法典の意義とともに、その限界にも注意する必要がある。


「ルール」を読む時、その中には、「権利」や「義務」「制限」が規定されている。過去、そのルールができる前には、無かったことに不満を覚える人たちがいた。あるいは無いことによって世が不安定になっていた。だから、安寧秩序のために、その「ルール」が規定された。

もし、その「ルール」に、不満や不自由を覚えるようであれば、それはきっとまだ、人間が得たいと思っている「権利」や、やるべきと感じる「義務」、あるいは設けてほしいと思う「制限」が、まだあるということで、それを得ることによって、人間はよりよい方向、あるいは悪い方向へと進む可能性がまだあるのだということなのだと思います。

すでに今あるものが、無い状態を想像することは、なかなか難しいけれども、じぶんらは少なくともその「ルール」の恩恵、あるいは制限の中に暮らしています。

それらは決して悪いものではないはずで、むしろ人間がこれまでに得たいと思ってきたことを、少しづつ手に入れてきた結果なのだと思いたいです。「ルール」とは、そのようにして規定されたものなはずなのだ、と考えたいと思います。

今週の一冊はコチラ▽




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