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#週一文庫「談志最後の落語論」立川談志

一番面白かったのは、P43 第一章 落語、この素晴らしきもの 落語はなぜ"面白い"のか

「落語はなぜ"面白い"のか。それを分解してみる。
 よく、「笑い」を分解して表現する人がいる。また、その表現に効果がある場合が多くある。ざっとあげても、道化、ナンセンス、ウイット、ジョーク、馬鹿、ユーモア......とある。(中略)
『ナンセンス』は、"どっか常識とは違っている""ズレている"という可笑しさを誘うものだ。ある意味、バカにしたような笑いを誘う。
『ウイット』は、"野郎、巧いこと言いやがったな"というもの。
『ジョーク』は、練って練って作りあげるものだ。
『馬鹿』は、状況判断ができないからやることが可笑しい。それを表現する。
 それらを含め、笑いのすべてが理解ることを『ユーモアがある』『ユーモアが理解る』と言う。ま、どうでもいいがネ。
 で、落語はなぜ"面白い"のか。それは、それら笑いのすべての要素が入っているからであり、そこへさらにイリュージョンをぶち込んだのが立川談志である。だから、談志の落語は"さらに面白い"。」

これを読んだ後に、もう一度本文中に出てくる落語の表現をみると、たしかに「ナンセンス」な風もあれば、同時に「ウイット」に富んでいるということに気がつく。正直これまでは、"ナンカ、よくワカンナイけど、なんか、オモシロイ"という感覚として笑ってばかりいた。でも、それだけいろいろ混じっていれば、なんでじぶんが笑っているのかも、考えなければ気づきもしないだろう。

2,3年前に、会社の同期と、新宿の末廣亭に行った。大学生の頃以来で2回目である。まあ、まだまだ落語が何なのかなんて、よくワカンナイ。
その時の自分からしてみれば、やっぱり"笑える落語がオモシロイ落語"なのであって、ギャグのような・不謹慎笑いのような、そんなものが飛び交うのを期待していた。

でも、行って座って聞いていてもよくわからない。
"笑いドコロ"がどこなのか、聞いていてわからなかった。難であれば、声がもはや聞こえないなんていうこともあった。落語を聞くよりも、途中、壇上に上がる大道芸人たちが見世物をしている時間の方が、おもしろく感じたくらいだった。

今、この本を読み終わった後ならば、少しは理解るものか。


捨てがたい面白かったところが、一箇所ある。
P135 第三章 "それ"を落語家が捨てるのか もはや談志は"場違い"か

「"面白い"というのは判る。"つまらない"のも判る。そして、"上手い"の上位に、『どう上手く演じようが踊ろうが、あれは違うよ、場違いだよ』という物差しがある。それは、時代や風潮、雰囲気に関係している。それらを無視した芸は、たとえ上手く演っても"それは違う"であろう。」

はじめは、こちらを取り上げるつもりだったくらいだ。

この後、かつて審査員をやっていた新人登竜門の番組のときのことを思い出しながら、「それは、私が審査員席に座っていると、談志に受けようということが主になってくる。それでは番組としては困るというので、
『談志さん、ひとつ辞めてもらいてェんだけどね』『判った、判った』」ということがあったことを語るのだ。

"場違い"、といっても、瞬間瞬間の"場"との違いというだけでなく、もっと大きく"時代"との齟齬ということも示している。それを見極められていない芸は、ズレた芸として評されてしまう。

とはいっても、その"時代"を好かないということだって本当はありうる。だから、そんな自分がわざともう外してしまった"時代"とのズレに関しては、むしろ受け入れてもいんじゃないかななんて思う。無理にやる必要もない。

でも、舞台に上がるのであれば事情は違って、"時代"・"場"というものを見極めて、じぶんの為してはならない芸というのを見極めなければならない。


いや、なんでこんなところで立ち止まっているのかというと

自分自身が、割と"ズレて"いるよね。と言われるからだ。

私生活的なところでいくと、良い意味で言われることもあるけれど、仕事的なところでそれを言われるときは、正直かなりよろしくない意味合いだと思っている。でも、本当にじぶんでも認識しているけれど、ズレているのだ。

小学校のときは、身の回りみんな昨晩家に帰って観ていたテレビの話をしているし、中学校のときサッカー部に入っていたときは、身の回りのサッカー部は好きなサッカー選手のプレーの話なんかをしていた。

でも、じぶんは、テレビを殆どつけることが無いし、最近つけるようになったのも、朝の目覚まし時計代わりにタイマーでセットしてあるだけなもんで。
サッカーに関してだって、キャプテン翼の技には興味はあっても、欧州リーグの試合で選手がどんなプレーをしていたのか知らなかったし、知っているとしても、マラドーナの5人抜きゴールの動画をネット上で観ていただけだった。


ずいぶんと遠回りをした。

つまりは、落語にせよ、そうでないにせよ、その"芸(仕事)"で、飯を食おうというのであれば、"場違い"となってしまわないように、"時代"をちゃんと見極めながら笑わしにかからなければならないのだなあと、何となくに反省をさせられた箇所であったのです。


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