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続:上陽町「ひふみよ橋」の運命(2021ponte投稿)

 転勤で東京から九州の人になったのは九年前の平成二四年。その年の七月に福岡・熊本・大分県に大きな被害を与えた九州北部豪雨が発生。私はそのまま若干ながらも福岡県八女市の復興に関わることになった。
 平成二五年に発刊したポンテ39号では、当時の被災の状況と八女市の観光資源、上陽町のひふみよ橋が受けた被害についてレポートをしたが、本稿では、その続き、ひふみよ橋の復興について報告したい。
 ひふみよ橋とは、福岡県八女市上陽町の星野川にかかる四つの石造アーチ橋群の総称で、星野川の約二、五kmの区間に上流から一連~四連の石造アーチ橋が架けられている。
 九年前の九州北部豪雨では多くの橋(八女市内で合計一三橋)が架け替えが必要なレベルで被災するなか、「(ひ)一連の洗玉橋(ルビ:せんぎょくばし)(明治二三年造)」、「(ふ)二連の寄口橋(ルビ:よりぐちばし)(大正九年造 洗玉橋の約五〇〇m下流)」、「(み)三連の大瀬橋(ルビ:だいぜばし)(大正六年造 寄口橋の約五〇〇m下流)」はほとんど損傷がなく、部分的な補修ですぐに供用が再開された。しかし、一番規模が大きい「(よ)四連の宮ヶ原橋(ルビ:みやがはるばし)(大正一一年造  大瀬橋の約一五〇〇m下流)」はアーチリングの流出はなかったものの、すべての高欄や、中込めの土砂が流出し、しばらく供用できない状態が続いた(写真1)。

写真1 被災直後の宮ヶ原橋(筆者撮影)


 これら四橋は明治二三年の大洪水で星野川に架かるすべての橋が流されたために建造されたものだが、昭和や平成にかけて架けられた新しい橋と比較しても、古い橋ほど被害が少なかったという事実は大変興味深い。石橋の中でも一番被害が大きかった宮ヶ原橋は、ひふみよ橋の中では一番あたらしい。

 福岡県は、五年をかけて河道の拡幅をおこなう災害復旧助成事業を平成二四年に発表。予算規模は約百十九億円。街中ではないので河道の拡幅自体は大変な工事ではないと予想できるが、石橋との共存をどうするのかが大きな課題となった。家屋浸水の一因となることから撤去を求める声と貴重な文化遺産として修復保存を求める声とのせめぎあいの中、八女市は平成二五年一〇月に歩道として修復保存することを決定した。それは八女市の景観計画において、本橋は文化的景観を構成する重要な構造物であると位置づけられているためでもあった。
 平成二七年度に、全三回の景観整備検討協議会、学識者ヒアリング、九州大学での模型検討会等を経て、石橋と安全の両立を実現するために石橋の前後約二二〇mの範囲で分水路を整備、周辺の河道を広げ、中州状に残された空間を公園(宮ヶ原公園)とする案が選定された(写真2)。

写真2 全体鳥瞰図(google mapより)。平時は石橋側に水が流れる


工事は次のような工夫をおこない、平成三一年に竣工した。
・河川の拡幅は、現況の多様な自然環境を保全するため、片側拡幅とする
・改修前の平常時の状況を維持するよう、平常時は石橋側に水が流れるようにする
・増水時の水を受けもつ分水路側には橋脚のない単径間の桁橋を架設(表紙写真)
・護岸は自然石の石積みにて復旧
・流下能力に影響がない岩は撤去せずにそのまま残す
 関係者の多大な努力により、工事は無事行われ、八女市が誇る石橋の景観は守られることとなった(表紙写真)。

 本年三月末に、宮ヶ原橋の状況を見に行ったので、現地の状況を報告する。流出した石の高欄と親柱は石材にて新設されており、気持ちよく散歩ができる遊歩道になっている(写真3)。

写真3 橋面の状況。親柱と高欄は石材で新設(筆者撮影)


ただ車両の通行は規制しており、生活道路としては利用されていないようであった。周辺は鉄道などはなく車がないと何もできない土地柄故、地元のかたが歩道橋として利用することはほとんどなさそう。軽トラでよいので通行を許可できるようにすれば、生活道路になると思うのだけど。また私のような外部の人が車で見に行っても、案内板や駐車場がまったくなく、現地で少々とまどった。中州にできた宮ヶ原公園も、災害復旧竣工記念の大きな石碑が立っている以外は何もない空間で、公園として利用されていない印象がある。石橋と生活の安全を担保するために必要なことはやったけど、それをまちづくりのツールとして活用するのはこれからの段階のようである。石橋を守るための分水路は国内でも例が少なく、石橋と安全の両立を図った大変意義のある事業と思うのだが、案内板などのかたちで広報されておらず、もったいないという印象を受けた。実際この原稿を書くためにインターネットをいろいろ検索したが、この事業の紹介にほとんど行きつかなかった。もっと自慢していいことだと思うのだけど・・。
 宮ヶ原橋は親柱と高欄をもとどおりに石つくりとしている。高欄の石は、既存の橋と素材感がほとんど同じであり、中国産の御影石とかではなく、本体と同じ場所から切り出した石を使っているように見えた(写真4)。

写真4 補修後の宮ヶ原橋(筆者撮影)。 既存の橋と新設高欄の素材感がほぼ一致している。

味なことをやるものと思ったが、そんなことを果たして誰がやったのか。ヒントは宮ヶ原公園の竣工記念碑の裏に刻まれていた。「平成三一年三月吉日 施工 八女石灯ろう協同組合」。私は八女石灯ろう協同組合に電話して聞いてみた。高欄と親柱は当時の図面が残っており、それをもとに造ったそうである。当時の参考資料類は「(ふ)二連の寄口橋」のたもとにある「ほたると石橋の館」にあるという。取材をさせてもらえることになった。次回のポンテで宮ヶ原橋再生のより詳しいエピソードをお知らせしたい。(つづく)


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