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ワークショップ「規則から作る/規則を考える」レポート

このnoteでは私が何度か劇伴に携わった劇団あはひによるイベント「劇の交差点」で行ったタイトルのワークショップ(1/26、早稲田小劇場)の概略、感想、話しそびれたこと、考えたこと、などを(tweetにすると長すぎるなと思ったので)備忘録的に書いていきたい。

このWSは、前半はスライドを使ったレクチャー的なことを行い、後半は三つの実験/ゲームを行った。

前半

スライド1

最初に、今回話す「規則」というものがどのようなものか、類義語や具体例などを挙げながら、それがそこら中にあるものであることを確認した。
また、私自身が行なっている、ジェネラティブ・アートやジェネラティブ・ミュージックのような試みが、規則と重要な関係を持っていること、また実際その試みがどのようなものか、プログラムを実行したりしてみせた。

スライド2

ジェネラティブ・アート(ミュージック)のいわば「その次」として、コンピュータで作られた音楽生成プログラムを人力で行うという三輪眞弘の「逆シミュレーション音楽」を紹介した。
またそこにおいて、その規則を実行する意味や理由、物語といったものや、また実行する上でのテクニックが必要になるといった規則の外部が問題になることを確認した。

スライド3

次に、トム・ブラウンの2023のM-1グランプリの敗者復活ネタ(の面白さ)を、規則(因果)という観点から考えた。「逆シミュレーション音楽」のように「実際に」行うのではなく、いわばヒューム的に、結果を羅列することにおいて(例えば、「矢を上に打つ」「矢が落ちてきて刺さる」)、その間の因果を視聴者の想像力に補わせる、そこに可能性があるのではないか、という話をした。

スライド4

前半の最後に、概念としてのゲームについて考えた。ゲームは規則が集まってできているが、規則が集まればゲームになるわけではない。ゲーム的であること、ゲーム的に「面白い」こととはどのようなことなのか、それは、半ば見通しが立ち、半ば見通せない(不確定性がある)状態なのではないか、それはいわゆるゲームだけでなく、他の芸術などを楽しむ際にも同じことであり、そのような意味ではゲームは諸々の芸術形態の内の一つというよりも、メタ芸術的な形式とも言えるのではないか。
(確かに、実験的なゲームなどにおいて、全く見通しが立たないだとか、あるいは全く見通しが立っている状況などはあるかもしれないが、それはゲーム的な面白さというよりも、他の「普通の」ゲームとの差異、という文脈を含めての面白さ・批評性なのではないだろうか)
(例えばLINEようなアプリや、YouTubeなようなサイトは規則=プログラムでできているが、一般的にそれはゲームではない。だが例えば、ある人を演劇に誘いたくてLINEの文面を考えている時、LINEはゲームになっているのかもしれないし、また、アーティスト名も曲名も分からないが聞いたことのある曲をYouTubeで探そうとする時YouTubeはゲームになっているのかもしれない。)

また、ゲームが規則に関わる一方で、それがゲームとして複雑性を帯び、プレイヤーの能動性や主体性(主観性)を引き出し、そこに意味を見出させ、そこで起こる物語に実存的に参加しているように没入させることには、規則の外部の到来が関わっていることを確認した。

ここで、ジェネラティブ・アートと、昨今の「生成AI」の違いを、ブラックボックスという観点、規則の共有可能性、修正(MOD)可能性という観点から考え、また問題化した。ゲームは規則が共有できるからこそ多様な主体が参加できる。また縛りプレイなどもそうだが、一度「見通し」が生まれてしまったゲームも、規則が明白であればそれを増やしたり減らしたりいじったりして、ゲーム性を賦活することができるだろう。

そもそも人は規則(予測と言ってもいい)を当てはめながら世界や他者を認知している(そのことによってカオスに受動的に飲まれずに済む)とも考えられるが、そのような意味では、私たちは諸々の規則=インターフェースから成り、様々なゲーム性を生じさせるアーケードを生きているとも言え、芸術とは別のインターフェース、そしてそこから生じる別の能動性、能力、自由、意識の創造へ向けたゲーム・デザインをアフォードする技術として考えることができるのではないか、ということを確認した。

「ゲーム的」とか「規則(ルール)」というのはしばしばネガティヴな意味で用いられるが、このようにしてそれをポジティヴに考え直すこともできるし、そこには何より実践的な意義があるのではないだろうか。

後半

規則を実行していく実験/ゲームを三つ行った。
途中でルールを変えたものもある。

スライド5

一つ目の実験。スライドの書き方だと分かりづらいかもしれないが、n人の人を集め、その人たちに数字(2とか3とか)を渡し、その文字数の言葉を考えてもらい、スライドの例のように言ってもらうというもの。

他の人が言った言葉を聞いていると、偶発的に別の単語が生まれたり(例の場合は「まど」など)して、惑わされて、意外と難しい。
また、テンポ上げていくと、急に単語が聞こえたりもしてくる。

やっていく中で、これをゲーム化するアイディアが生まれた。
参加者は、この規則に従って言葉を発しながら、同時に、他の人の単語がなんなのかを聞き取る。分かったら手を挙げて言う。あっていたら当てられた人が脱落。間違えたら間違えた人が脱落。テンポを守れなくても脱落。最後に残った人が勝ち。(これが結構面白かった)

スライド6

二つ目の実験。n人の参加者がいる時、参加者とは別の人がn文字の単語を考え、その単語を言わずに、その単語の一文字一文字を一人一人に配る。自分の文字を言いながら、誰か人を指し、指された人もそれをやる。正しい単語を三回繰り返すまでやる。

これが難しく、また面白かった。自分の文字と(指している)人の文字とがこんがらがったり、別の単語が現れて惑わせられたり(例えば「いかすみ」の中の「すいか」)、同じ人が互いに何回も指しあってオノマトペのようになったりした。自分で参加してみて、急になんの単語が分かる瞬間があり、また一度自分が次に誰を指すべきかが分かるとぐっと難易度が下がった。「ほととぎす」のように二つ以上同じ文字が入っているとややこしくなる。また「いか+すみ」のように2+2とか3+2みたいな構造の単語の方が分かりやすいのかもしれない。

スライド7

三つ目の実験。これは現在私が「物理音楽」などと呼んで取り組んでいるジェネラティブ・ミュージックの作品をみせ、その上で行った(これについてはまだ練っている最中なので秘密!その内公開します)。この実験からはさらに二つの別の実験が生まれた。

まずはオリジナルを行った。四人(別にもっと多くてもいいのだが)でバーチャルな「壁」を作り、二次元の摩擦のない空間を作り、誰かがそこにボールを投げる素振りをする。各々が「どん」とか「ぱん」といった音を持っており、そのバーチャルなボールのバーチャルな軌道を追い、バーチャルな壁に反射させていき、自分のところにぶつかった時に自分の音を言う。
もし全員が想定するボールの軌道や速度が同じならば、そこにあるボールの数は一個であり、音は重なったりしない。だがそれぞれが多かれ少なかれ(実際には全くもって)違う軌道を考えるので、ボールは四つある、というか、一つのボールがある空間が可能世界的に四つ重なっていることになる。理念的には、四人でやれば、ボール(空間)の数は量子的に、1から4の間で収束したり発散したりして揺らぐことになる。

ここから派生して、四人が作る空間内にボール担当を置き、そのボール担当がボールの軌道を手で描き、あとは同じようにそれぞれがそれぞれの音を言うことにした。
この場合、すべてはボール担当の裁量次第であり、ボール担当はボールの速度を変えたり、軌道を捻じ曲げたりしながら、さながら指揮者か、サンプラーをいじるトラックメイカーのように音を鳴らすことができ、オリジナルよりも「音楽的」なものになった。

ここからさらに別バージョンが生まれた。今回は、n人がボールになり、舞台上を四つの壁に囲まれた空間として、好きな速度で直線運動し、壁にぶつかり、跳ね返ってもらった。壁にぶつかった時にそれぞれの音を言うだけでなく、ボール同士がぶつかった場合は手でハンドクラップをすることにした。
やっている側としては、ボールになる享楽というものを感じ、またさながら渋谷のスクランブル交差点のようで面白かったが、客観的に見ると、舞台上を歩くドタドタという音がかなり大きかったようだ。

感想

事前検証などせずにルールだけ用意した「実験」だったが、実際に生身の人間でやってみると、予想していない事態が起きたり、もっと面白くするルールが思いついたり、また単純にルールに従って動くことの楽しさを感じられたりできて面白かった。

補足

スライドを準備している段階ではうまく整理できておらず、WS後に参加者の感想を聞いたり、人と話したりして、言えるようになってきたことがあるので(一部はtweetに書いたが)それを書いておきたい(若干専門的な内容になります)。

ゲーム的な面白さ、ゲームによる実存化、主体化、時間化について

ゲーム的な面白さについて、「半ば見通しが立てられるが、半ば不確定性がある状態」と言いましたが、これは哲学的に言えば、決定論と自由意志の問題とも言えます。一見この二つは二律背反のジレンマのように思えますが、郡司ぺギオ幸夫は『天然知能』において、分析哲学者のダメットの議論を引きながら、この二つにさらに「局所性 locality」という概念を加えた「トリレンマ」(二つを取ると一つは取れない)を考えるのなら、この二つは両立すると言います(というか、私たちは普段、一方では科学や科学的な因果性を信じ、また他方では私たちの運命がすべて規則によって決定されているとは思わずに、なんとなく「自由」を信じてもいるという意味で、この両立は「普通」あるいは「正常」な状態を指すわけですが)。

この「局所性」ないしその欠落としての「非局所性」は物理学、特に量子力学の領域で出てくる言葉ですが、刑事ドラマの取り調べシーンで出てくるマジックミラーがある部屋のように、観測対象に影響を与えずに観測をできること、ぐらいに理解すればいいと思います。これが成り立たないのが「非局所性」(観測が観測結果に影響を与えてしまう)。量子力学的な領野などを除けば、自然科学という営み自体が局所性に依拠しているとも言えるでしょう(だから、科学は自由意志・決定論・局所性の内、自由意志を捨てているわけです)。

さて、この観点からすると、ゲーム的に面白い状態は、決定論と自由意志が両立する状態、つまり非局所性が成り立つ状態において生まれるとも言い換えられるでしょうか(『天然知能』の議論に合わせるのなら、厳密には、三つの概念の内、自由意志が欠落したもの、決定論が欠落したもの、局所性が脱落したもの、という三つの存在様式の間で存続するのが、郡司が「天然知能」と呼ぶ、外部に開かれた主体性のあり方になりますが、これこそが「遊び」ということになります。すると決定論と自由意志を両立させる=非局所性を生み出すゲームルールそれ自体は、遊びの誘発装置(アトラクター)、あるいはテンションとして重要であるということになる。このような観点から以下、非局所性について述べていきます)。

ここでは「(非)局所性」という概念を、ある個体が別の個体に影響を与えることなく影響を与えられることができる(できない)こと、として考えてみます。影響を与えることとは、その対象について何かを知る(観測する)ことでもあるからです(例えば壁を殴った時に、私たちは壁の硬さや質感を知ります。翻って、自分の体の強度を知ったりもするわけです)。このように考えみてると、非局所性自体はありふれているというか、理念的にはどこにでもあるような気もします。他方、私たちは普段、このことを抑圧というか、忘却すること、考えないことによって、自らを、一方的に対象に働きかける主体として保ち、世界のカオスさかか自らを守っているようにも、言い換えるのなら、思考のエネルギーを削減しているようにも思います。

いずれにしても、非局所性は日常においては、「厳密に言えば確かにそうなんだけど…」という形で、ある種量子論がそうであるように、ミクロ=些細なものとして引きこもっています(逆に、非局所性がもはやそのような些細なものではあり得なくなっている時には、何かしらの出来事=事件が起きていると言えると思います)。

私はこの非局所性が、いわば「目に見える」形で、実際的、大局的に現れることに、規則における再帰性やインタラクションが関わっているのではないかと思っています。再帰性とは、(ざっくり言えば)自己の行為が自己に影響を与えるということです。例えばビデオゲームをプレイする時、私たちはゲームを操作し(ゲームに影響を与え)、その影響を受けて起きたゲーム状況の変化に、その操作自体が影響を受ける、という形で、つまりゲームとのインタラクションという形で再帰性が生まれ、複雑な遊び体験が生まれていると言えます。

さて、このように、原因と結果が分離できず、結果が原因となったり原因が結果であったりする反転状態において問い直されるのは、これまで前提としてきた、影響を与える主体/影響を与えられる客体という分離、言い換えるのなら「個体性」です。そもそも、例えばゲームとそのプレイヤーは、そこで起こっている「ゲームプレイイング」という出来事という観点からして、切り離すことができません(切り離せばその出来事は成立しなくなってしまいます)。言い換えるのなら、そこでゲームとプレイヤーは「全体」を成しており、プレイヤーの実存(プレイヤーがプレイヤーであること)にはこの全体が関わっています。このような分離不可能性を、「没入」体験として考えることもできるでしょう。反対に、その二つが分離している場合、そこに全体はありません。あるのは単純な並置としての「総体」だけであり、あえて言えば、個々の個体それぞれが閉じた全体になっているとも言えます。このような関係性において個体同士は、互いに自らを実質的に変化させることなく、いわばいつでも別れてもいい、別れても別れなくても変わらない状態であり、ここにおいては時間性というものは生じないと言えます。ここでいう時間性とは、時計が刻む均質な時間のようなものではなく、ある出来事が起き、それ以前/それ以後という不可逆的な区別を生み出すということです。ゲームを遊んでいる時や、そうでなくても楽しい時間が、早く過ぎ去ってしまう、というのは誰でも知っていることでしょう。そのような意味でゲーム的な面白さや楽しさ、喜びには時間性の成立が関わっているのではないでしょうか。

非局所的な再帰性(雑ですみません)

他方、非局所性においては、上図におけるAとBという個体の分離は仮のものであり、むしろここにあるのは、全体(A+B=C)と個々(A/B)の間のゆるい分離と、また個の数だけである「全体と個」同士の分裂(「CとA」と「CとB」)です。AからBへの影響(太い矢印)は、即座にBを含む全体への影響でもあり、また全体への影響は、即座に全体の中にあるAへの影響となっている、これが矢印の意味であり、これをリニアに(反時計回りに進むような)ものとして考えてはいけません。ですが、完全に「同時的」であるかと言われれば、そういうわけでもない。というのも、AからBへの影響は一定の時間幅を持つだろうからです。そうなると、AからBへの影響は、図の下のように、一瞬一瞬の間に、影響を与えられたA'からB'への影響となり、以下同じ、という風に、いわばアニメーションのように、不連続な状態が連続し、時間性が生まれることにもなります。ここにおいてなんらかのアクションは、規則的な(思った通りの)影響を与えるとは限らず(結果としてそうなる可能性はあるが、それは諸々の可能性の内の一つでしかない)、むしろ「斜め上」あるいは斜め下の、ノンリニアなものになる。ついでに言えば、AとBが完全に切り離せなくなるわけでもない以上、ここでは局所性も「半ば」確保されていると言えます。

実際にはゲームは普通複数の対象や複数の規則から成り立っており、ずっと複雑な状態が生まれるでしょう。とはいえ、上図のような単純な状態でも、再帰性によって、いわば内部から外部を生み出すことによって、「こうすればこうなるだろう」という規則が予測できないものになり得ることが理解できると思います。二つ以上の規則が交わった時どうなるか、というメタ規則は、それが実際に起こる以前には常に「来るべき」もの、未だ来ざるものであり、だからこそそこにおいては、元の規則(見通し)と、メタ規則(不確定性)が混ざり合って、冒頭で述べたようなゲーム体験が生まれるのではないでしょうか

非局所性という観点から、ゲーム的体験の成立について考えてきました。ここで述べた時間性や主体化、実存化の問題は、私たちが精神的に健康に日常を過ごしていく、といったようなアクチュアルな事態と関わってくると思います。
しばしば、SNSやニュースで「バカッター」などと呼ばれる行為が問題になります。もちろんああいったことはやってはいけませんが、かといって自分には関係ないと一蹴することも私にはできないなと思います。あのような行為は、いわば人々が社会的良識や道徳によって「やらない」ことをやってみることにおいて、その「やらない」を「できない」に読み換えることによって、翻って、自分にはそれが「できる」という実存や主体性(能動性)を確保しようとする、ある意味では真剣というか切実な「遊び」なのではないでしょうか。あのような行為の問題は、それが単に道徳やマナーに反していたり人に害を与えることではなく(それももちろん問題ですが)、あるいはそれ以上に、そのことによって、捕まったりしてしまい、「遊び」を頓挫させさせてしまう、その持続可能性のなさなのだと思います。そのような意味でも、規則を強引に破って外に出ようとするのではなく、いかに規則の中からその外を見出して遊んでいくか、ということゲーム的な課題は、個々人の健康にとっても、社会の平和にとっても重要な問題ではないでしょうか

さて、書いている内に、さらに書きたいことが出てきましたが(例えば規則があって遊びがあるのではなく、むしろ遊びがあって規則があるのだということ)、それはまだうまく書けそうにない(そしてもっと専門的になってしまう)ので、別の機会に書くなり話すなりできればなと思います。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございました!


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