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短編小説『私の自慢の集合ポスト』 前編

――少しでも、ましになるなら。

メイコは、そんな風に希望を抱いて、引っ越しを決めた。

新しい街で、新しいマンションで、新しい仕事を始めて。全てを新しくすることにより、自分は生まれ変わるのだ。私にはそうする権利があるし、また、そうするべきだ、とも思っていた。

岐阜の山奥の実家で母親と二人で二週間過ごし、顔に巻いた包帯が取れるようになった頃、メイコはスマートフォン一台で新しい家と町を手に入れたのであった。

「もう大丈夫。これで私は、少しでもましになるはずだから」

母親に告げ、実家を出る。

「引越しの挨拶はした方がいいから。しとくんだよ。またあんなことがあった時、頼りにできるのは、ご近所さんなんだからね」

母親は、メイコを見送る玄関口で念を押すようにそう言った。

新しい家は西東京の隅の方で、ぎりぎり神奈川県ではない位置にある。

以前住んでいたのは葛飾区の端の方で、商店街を抜けた先にある築二十年のマンションだった。仕事場が近くて気に入っていたのだが、今はもう近寄る気にもなれなかった。

あの男の影が浮かぶような町にはもう一秒だっていたくない。

そのためにメイコは、八年勤めた会社を辞め、実家に閉じこもり、新しい生活を手に入れる事にしたのだ。

引越しの荷物は午後に届くということなので、午前中は近所を散策する事にした。数日分のご飯の材料を近所のスーパーで買い込み、新居のドアを開けたところで、メイコは「うげっ」と唸った。

あの男――マサノブが、新居の真ん中でメイコの荷物の詰まったダンボールに腰掛けて、煙草を吸っていた。

「うげっ、ってなんだよ。またひどい挨拶かますねえ」

「な、なんでマサノブがここにいるの?」

「捜し当てたからいるのだよ」

「捜し当てたって、どうやって?」

「占いでさ! 骨占いを駆使したのさ! ……ま、それは別にどうでもいいじゃないかよ」

よくない。全くよくないのだが、マサノブはその方法を話そうとはしなかった。言う気がないのだ。次、またメイコがこっそりと自分に隠れて引っ越した時に、その方法を再び使うつもりだから、だ。

メイコは水溜りから水を直接飲んでいるような気分になった。

「ここが俺たちの新居かあ!」

マサノブはコーヒーの空き缶に煙草を押し付けながら明るく叫んだ。

「そうだ、お前の母親から届いてたぞ、荷物」

足元においてある小ぶりのダンボールを足で蹴飛ばす。

「……蹴らないでよ」

メイコがダンボールを開けると、大量の素麺と、「引越しの挨拶を忘れないように」という簡素な手紙が入っていた。

「挨拶って。今時誰もしねーだろ、そんなこと。俺たちはあれだよ、今時の若者だよ?」

「……出てってよ」

「出てかねーよ」

予想していた答えだった。メイコはそれ以上マサノブの相手をするのをやめ、素麺の袋をいくつか掴むと、廊下に出た。

両隣に住む人はどちらも「ああ、どうも」くらいしか挨拶を交わさなかった。

そればかりか、メイコが差し出した素麺も、受け取ろうとすらしなかった。右隣の主婦などは、チェーンをかけたまま隙間からメイコをじろじろと見るなり、「申し訳ないけど、うち、無宗教なんで」と言ってドアを閉めたのだった。

やっぱり隣ご近所に挨拶なんてしなくたって別に……と心が折れかけたメイコだったが、今家に帰ってもマサノブがいるだけだし、母親の「またあんなことがあった時、頼りにできるのは、ご近所さんなんだからね」という言葉に背中を押され、ひとつ下の階へ降りる事にした。

メイコの部屋は302号室であったので、真下の部屋は202号室となる。こういう集合住宅では、両隣よりも真上真下に対する生活音の方が意外と無頓着になりがちで、近所トラブルの発端になる場合がよくある。

メイコは202号室のドアの前に立ち、インターフォンを鳴らそうとしたところで、異常を感じて、ドアを眺める。

新築のマンションであるはずなのに、202号室のドアだけが異常に薄汚れていた。誰かが蹴っ飛ばしたのだろうか、革靴の底の跡の様なものが幾つもついている。それだけではない。ドアの前のコンクリートの床も、なんだか黒っぽい液体がドアの内側から染み出して広がったように汚れていた。

どうしてこの部屋だけ?

メイコはただならぬ気配を感じて、挨拶などせずに立ち去ってしまおうかとも考えたが、もしこの先もマサノブがまた家に入り浸るようなことになってしまうのであれば、真下に住むこの部屋の住人には、さぞ迷惑をかけてしまうだろう。そう考えてメイコは勇気を出して202号室のインターフォンを押した。

しばらくそのまま立っていたが、中から全く物音が聞こえず、ああ、住人は留守にしてるのだな、と、安堵の息を吐いてその場から立ち去ろうとした瞬間、目の前のドアが音もなく少しだけ隙間を開けた。

「……はい」

部屋の中は真っ暗で見えなかったが、少しだけ開かれた隙間から髪が長く白い顔の女の片方の目だけが、こちらへ浮かび上がっていた。

「あ、あのですね、私本日、この部屋のその、真上に越して来た、松橋という者なんですけれど、これ、あの、つまらないものですけど、ご挨拶という事で、その」

メイコはへどもどと必死で言葉を発しながら、隙間に差し込むように持っていた素麺を全て重ねて差し出した。女の片目は何も言わずにしばらく素麺の袋を見つめていたが、やがてその束を手に取ると、「そうですか。よろしくお願いします」とだけ言ってドアを閉めた。

女の手は、真っ白な顔とは対照的に、真っ黒に薄汚れていた。

部屋に戻ると、マサノブがキッチンで素麺を茹でていた。

「ちょっと、勝手に何してんの! 勝手に荷物取り出さんでよ!」

「昼飯だよ。昼飯を食うんだよ。あれ、お前、たくさん持ってた素麺はどうしたの?」

「全部ご近所さんにあげてきたよ!」

マサノブはうんざりしたような顔をメイコに向けて、

「じゃあ、素麺は今茹でてる一袋しかないってことかよ。マジかよ、全宇宙に素麺は、今茹でてる一袋だけってことかよ」と、嘆いた。

「全宇宙に素麺はその一袋だけじゃねーよ! 何言ってんの? つうか出てってよ!」

「莫迦、お昼ご飯だもの、なんで出て行かなきゃならんのよ? メイコお前、早く素麺取替えしてこいよ。このままだとお前だけお昼ご飯なしになっちゃうんだぞ」

マサノブは素麺に差し水をしながらとんでもないことを言った。

「は? あんた、それ、一人で食べるつもりなの?」

「当たり前だろ、俺が茹でてるんだから!」

ふざけんなよ、とメイコは言いかけて、声を飲み込んだ。

まただ。こうやって声を荒げてひとたび喧嘩になってしまえば、あの時の二の舞だ。もう、あんなのは二度とごめんだ。あんなことが起こるのは……。

メイコは無言でスーパーの袋の中から買ってきた惣菜の春巻きを取り出し、二本食べた。

三本目に手を伸ばした時、素麺を食べ終えたマサノブが、

「お前さあ、そういうジャンクなものばかり食べてるの、体に良くないと思うよ」と言って、玄関先で靴を履く。

「じゃ、また来るからさ」

そう言って出て行った。

メイコは春巻きを口に運んだが、藁屑を噛んで飲み込んでいる気分だった。

それからマサノブは、週に三日は来るようになった。その内、メイコの新しい家の中に、マサノブの物が増え始めた。

またか。と、メイコは思う。この男はこうやって自分の物を他人の家の中に少しづつ増やしていき、やがてすっかり自分の家にいるような面をして、もう二度と出て行かないつもりなのだ。

メイコがマサノブに内緒で葛飾区の家を解約し、実家に身を隠してから、この男はどうせ他の女の家に自分の物を持ち込んで暮らしていたに違いない。今は週に三日しか来ていないが、残りの四日は、他の女の家にいるのだろう。そして今、その女の家から、自分の物をせっせとメイコの家に移し変えているのだ。

メイコが新しく決まったバイトから帰宅すると、マサノブが居間で寝っ転がったまま、野球ゲームをしていた。

この男はいつの間に合鍵を作っていたのだろうか。

「お腹空いたんだけど」

マサノブはテレビモニターから視線を外すことなく、平坦な音でそう言った。傍らに、冷蔵庫から取り出したであろう、缶ビールの空き缶が二本転がっていた。

「……今から作る」

メイコはノロノロとキッチンへ移動した。

マサノブは、メイコの作ったオムライスを食べながらも、テレビゲームのコントローラーを手放そうとはしなかった。

「そういえばさ」

マサノブがテレビの中で打者を操作しながら言った。

「このマンションって、ペット飼っていいの?」

「え、よくないけど」

メイコは思わず鏡前の写真立てに視線を飛ばす。

以前住んでいた家は、ペット可だった。だからこそ、次は、ペット禁止であるこの家を選んだのであった。

「どうして? 誰か他の人が飼ってるの見たわけ?」

どうしてこの男は、こうも平然とペットの話題なんかできるのだろう?

胸の辺りに鉛を飲み込んだみたいな気分だった。できればペットの話なんか金輪際したくもない。そう思いながらもメイコは尋ねずにいられなかった。

「いや、別に見たわけじゃねーんだけどさ……」

マサノブはこちらを見ずに屁をこいた。思わず舌打ちをしてしまう。

「鳴き声がしたんだよ、さっき。猫の。なー、なーって」

「え」

メイコはオムライスを掬ったスプーンを置いて、しばし耳を澄ませる。

「ストライクバッタアウト!」という音声以外は何も聴こえなかった。マサノブは三振したようだった。

「あー、もう! 変化球読んでたのにー! やめやめ。地獄の底から地上に現れた大悪魔のすげー力による強制ゲームセットの刑に処す」

そう言ってゲーム機本体の電源ボタンを切ってうつ伏せになってしまった。

メイコの部屋の中は無音になったが、やはり猫の鳴き声などは聴こえなかった。すぐ後に、マサノブの屁の音だけがした。

メイコは何も言わず、鏡前を見る。写真立ての中では、飼い猫のナッキーがこちらを見つめ返していた。

夢の中でナッキーと出合って、メイコは泣きながら目を覚ました。

ベッドから身を起こし、キッチンへ水を飲みに行く。

今日はマサノブの姿は無い。その代わり、マサノブが持ち込んだ筋トレのグッズがキッチンを侵略し始めていた。腹筋するためのおかしな形状の椅子みたいなものやダンベルを爪先で隅の方へやってから、メイコは鏡前へ行き、瞼が腫れてしまっていないか確認した。

写真立ての中のナッキーは、夢の中で出会った時と変わらないキリリとした表情をしていた。その目を見つめれば見つめるほど、先ほど拭ったばかりの涙がとめどなく溢れて止まらなくなってしまう。

可愛い猫だった。頭の良い猫だった。優しい猫だった。美しい猫だった。まだまだ若くて元気だった。

それなのに、どうして――

――なー。

今のは?

メイコは鼻を啜るのをやめて、耳を澄ます。

――なー。

今度ははっきりと聴こえた。

このマンションのどこかに、猫がいる。

メイコは急いで鼻をかむと、ジャージの上だけを羽織ってチャックを閉め、廊下へ飛び出した。

猫がいる。でも、どこにいるのだろう?

もちろんその猫がナッキーであるはずがないと頭では理解しながらも、メイコは声の主を探さずにはいられなかった。

廊下に出て、今が真夜中であることが思い出された。静かにドアを閉め、静寂の中に漬け込まれたような廊下を眺めたが、猫の姿は見えなかった。

――なー。なー。

再び鳴き声が聴こえた。

廊下の下から聴こえてくる。メイコは静かに階段を降り、二階の廊下を見渡すが、やはり猫の影すら見当たらない。

真下である202号室の前だけが、廊下の蛍光灯が切れたかのように闇に包まれているような気がした。

――なー。

今度はさっきよりも大きな鳴き声で聴こえた。

もう一つ下の階、つまりは一階にいるのだ。メイコは更に階段を降りる。

一階の廊下は薄暗く、見通しは良くなかった。ざっと目を走らせたが、猫の姿は見えない。廊下の真ん中にもう一本奥に真っ直ぐ伸びる通路があり、蛍光灯の明かりから逃れてその奥が薄暗くなっている。通路の奥は、マンション自体のエントランスとなっており、集合ポストが並んでいるはずだ。

――なー。なー。なー。

鳴き声は、エントランスの方から聴こえた。

エントランスの蛍光灯は切れ掛かっているらしく、明滅を繰り返している。

ゆっくりとメイコは歩を進めていく。

猫が、一階ロビーのエントランスに、閉じ込められてしまい、自動ドアを開けられずに困っている。

そんな光景がメイコの頭の中に浮かんだ。

可哀想に。今出してあげるからね。いや、それよりも、もう夜も遅いから、一晩くらい、ウチに来る? 美味しいご飯でも振舞ってあげようね。

そんな事を考えながらメイコはエントランスの中へ入ろうとして――足を止めた。

「……いい子だね。いい子だね」

か細く小さな声が、猫の鳴き声に重なって聴こえてきたのだ。

誰かいる……?

メイコは通路の影に姿を潜めて、上半身だけをゆっくりとエントランスの方へ伸ばし、誰がそこにいるのかを確かめようとした。

白い光が不定期感覚で明滅する少しだけ広めのエントランスの中、集合ポストが並んでいる。

その前に、細くて長い影が背中を向けて立っているのが見えた。

「いい子だね……。いい子だね……」

今にも消え入りそうな声で、その細長い声は、集合ポストに向って話しかけている。

なー、なー、という猫の鳴き声に、ガサガサ、ガチャガチャ、と、色んな音が重なっている。

誰だ? 誰が、何をしているのだ?

メイコはもう少し良く見ようと、上半身を屈めて角度を変えた。

細長い影の手元が見えた。

黒く薄汚れた手が、コンビニのビニール袋に突っ込まれて、袋がガサガサと音を立てている。やがてその手は袋の中から直接、ぐちゃぐちゃに踏み潰されたようなおにぎりのようなものを取り出し、集合ポストの、取り出し口の中へ詰め込み始めた。

「いい子だね……たんとお食べ……」

ぐちゃぐちゃになった米や魚の屑のようなものが詰められていくポストの中から、なーなー、という猫の鳴き声と、ポストの扉を内側から引っかく、ガチャガチャ、という音が聴こえて来た。

まさかとは思うが。

メイコは混乱と恐怖に脳を引っ掻き回されながらも、目を離すことが出来なかった。

――郵便ポストの中で、猫を飼ってるの?

そう思った途端、細長い影はぴたりと動作を止め、ゆっくりと薄汚れた手を下ろすと、一呼吸置いて、一気にこちらの方を向いた。

メイコはそれよりも少し前に、自分の身体を通路に引っ込めていたので、顔を見られたという心配はなかったが、なるべく音を立てずに階段を全力で駆け上がりながらも、まったく別の思いが頭を占めていた。

自分の家に戻り、鍵を閉めてチェーンをかけてから、玄関に座り込み、頭の中を占めている思いを、声に出してみた。

「……あの人、ウチの真下の部屋の……」

つづく。


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