怪談『避難所』
「仕事で、徳島県に行ったときのことなんですけど」
都内で営業職を務める丸谷さんは言った。
「会社に取ってもらったホテルが、結構山の中で、駅前からタクシーでだいぶ行かなきゃいけないところで、参ったなあ、と思いました」
急な出張だったため、駅前のホテルは満員で、そこしか空き室がなかったのだという。
「とりあえずチェックインして部屋に入りました」
部屋の奥にある窓の向こうは山の斜面になっていた。
「そのせいか、夏の夕方でまだ明るいはずなのにどうも薄暗くって、陰鬱な気分になりましたね」
テーブルの上に荷物を置いて、ふと鏡の横を見ると、額縁が飾られていた。
「どんな絵が飾ってあったのかは忘れましたけど、とりあえず、飲みに行こうと思って」
丸谷さんは荷物を置いて着替えると、部屋のキーを持って駅前まで繰り出そうとした。
「駅前までは、山を降りて少し歩けばすぐですから、散歩がてら徒歩で行こうと思ったんです」
ところがホテルを出て少し歩いたところで、途端に大雨になってしまった。
「あたりも一気に真っ暗になって。こりゃ駄目だ、と諦めて大慌てでホテルへ戻りました」
シャワーでも浴びて、ホテルの食堂か自販機のビールで我慢しようと考えたのだという。
「さっき出たばかりのホテルに戻って、エレベーターで自分の部屋まで向いました」
自分の部屋にキーを差し込んで、ドアを押して中に入ろうとした瞬間、
「はいって、こないで、ください」
という、子供の声が聴こえた。
同時に、ドアが内側からバタン、と閉められ、何度押しても開かなくなってしまった。
「誰か他の部屋の子供が中に入って悪戯してる、そう思いました」
丸谷さんは何度かキーを差し込んでノブを捻ってみたが、中から押さえられてるかのようにドアは開かなかった。
「で、仕方ないんでフロントに行って」
若い女性のフロントに事情を話して、丸谷さんが部屋番号を告げると、
「ええー」
と小さく言ったのだという。
「ええっ、とか、ええ、とかそういう感情じゃないんですよ。呆れた時とか、がっかりした時とか、そういうときに言う、ええー、です」
どういう意味かと丸谷さんが訊こうかと思っていると、奥から高齢のフロントが出てきた。
「その人は、失礼しました、と言って、壁の時計を見たんです」
夕方の6時7分ごろだったという。
「では私が参ります、と言って、そのおじさんのフロントが一緒に来てくれました」
エレベーターでフロアまで上がり、丸谷さんのドアの前まで行くと、フロントの男性は、腕時計を確かめた。
「僕も思わず一緒に確かめると、6時10分になったところでした」
もういいでしょう、と言ってフロントの男性がキーを差し込むと、抵抗なくカチャリ、と開いた。
「なんだったんでしょうか、と尋ねたんですが」
フロントの男性はその質問に答えず、失礼します、と言って部屋の中に入っていった。
「鏡の横の、額縁に真っ直ぐ歩いていって、ひょい、と裏返したんです」
額縁の裏には、何も貼っていなかった。
「おじさんは、うーん、と言ってから、額縁の裏の隅を指差して、僕に訊いてきたんです」
剥がしましたか? と。
「何のことかわかりませんでした。それで、良く見ると、指先の方に、うっすらと、以前貼ってあった何か四角いものを剥がした跡が残っていました」
そこだけ、四角く色が違っていたという。
「いいえ、何のことかわかりません、と答えました」
それでフロントの男性は、失礼しました、とだけ言って、額縁を元に戻した。
「それで、お部屋を変えますか? と言われたので、是非、と答えて」
丸谷さんは、荷物を持って一つしたのフロアの部屋に移動した。
「廊下歩きながら、フロントの人に、あれ、なんだったんですか? って訊いてみたんですよ」
すると、フロントの男性は、真っ直ぐ前を見たまま、答えたという。
「ちょうどこの時間くらいになると、山からきて、部屋に逃げ込むんです」
丸谷さんは、一体何が山から来るのか、恐ろしくて尋ねることが出来なかった。
「聞いとけば良かったなあ。そのホテル教えますから、今度行って聞いてきてくださいよ」
自分でやれ。
※登場する人物名は、すべて仮名です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?