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父のこと②

最晩年の父との月1のデートについて話す前に、私自身の心の変化について書き留めておこうと思います。

私が他人に父の逝去について話す時に、心が揺れる相手とそうでない相手がいるということを発見したことです。
つまり、自分がどれだけその相手に心を開いているか?がわかるというのだと。

例えば、葬儀の準備でバタバタとしていたときのこと。式は家族葬に毛が生えた程度の、こじんまりとしたもの予定していたのですが、なにせ何もかもが初めてのこと。

少なくとも4人の親を送り出しているはずの母は、手伝うどころかむしろ足を引っ張るし、喪主である兄は同じく初めての役割で精一杯。高齢であったり、地方から来てくれる親族や参列者の方々の対応に、どうにもこうにも人手が足りない。

途方に暮れた私は、通夜当日、地元の幼なじみにヘルプを求めました。教師の彼女はちょうど夏休み。事情を話すと、二つ返事で来てくれると。
そのありがたさに、張り詰めていた緊張がフッと緩むのを感じ、言葉を紡ぎだそうにも、嗚咽に変わるのでした。

一方で、ここ数年で共に過ごす時間も多く、気の置けないと思っていた友人たちの中には、不思議と淡々と報告ができている人もいるのです。
いったい、この違いはなんだろう?と考えてみました。

すると、その相手に対してどこか「弱みを見せたくない」「自分のことを理解してもらえていない」という気持ちが露呈してきたのです。

その人との関係性を築く過程で、感情を露わにしても良いかどうか、いつのまにか心の中にボリュームコントローラーを付け加えていたようでした。

この一年近く、自分自身と向き合うことを小休止していたのだけれど、思わぬところで父の死という出来事が、自分の生き方やあり方について再考するきっかけを与えてくれるとは思ってもみないことでした。

さて、今度こそ本編に移ります。

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