朝日新聞9月1日(司馬遼太郎を読む 生誕100年:5)「街道をゆく モンゴル紀行」 岸本葉子さん より

朝日新聞9月1日(司馬遼太郎を読む 生誕100年:5)「街道をゆく モンゴル紀行」 岸本葉子さん より

寄稿者の岸本さんは司馬作品を好んでいて、その影響もあってモンゴルへ行きたいとの思いがあり、体調を崩したことの後に一念発起してモンゴルへ旅立ったという。司馬遼太郎をモンゴルへと駆り立てた「少年のような好奇心」について述べておられた。
確かに司馬遼太郎は、好奇心の塊のような人であったように思われる。物を書いたり研究したりする人には少年少女のような好奇心が必要だが、これを維持するのは結構大変だと思う。あくなき好奇心と情熱。
司馬遼太郎は本当によく調べる人であった。新聞記者時代には仏教記事の担当になり、何日もお寺にこもって文書を熱心に読んでいたらしい。
『坂の上の雲』という作品でも、日露戦争を描くにあたりロシアのことを相当調べてかなりのページをロシアについて書いている。
なぜ、氏がモンゴルに少年のような好奇心を持つようになったのか。子供の頃から興味があったようだが、本格的には彼が蒙古学科というマニアックな学科に入学したことが大きい。1940年(昭和15年)に旧制大阪高校、翌年には旧制弘前高校を受験したが不合格で、1942年(昭和17年)4月に旧制大阪外国語学校(現在の大阪大学外国語学部モンゴル語専攻)を受験。(ウィキペディアを参考https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E)
彼は数学が大の苦手だったので旧制高校に入ることができず、数学がなくても受験できる外国語学校に入学することができた。なお、旧制高校とは現在の大学の教養課程にあたる。戦前は、旧制高校で学んだ一握りの人たちだけが帝国大学(現在の国立大学)に進む事ができたのである。
筆者の高校時代の英語講師の先生もモンゴルに旅立った(というか、移住した)方がおられた。外大でモンゴル語を専攻していてテレビの字幕翻訳に関わったりモンゴルで馬に乗った話とかを興味深く聞いたものである。
とてもいい英語講師だったと記憶しているが、学校を辞めてモンゴルに行くことの理由を生徒が聞いたら「いやぁ、モンゴル高原の偉大さに負けましてねぇ」と述べられたらしい。
そんな広大な土地をかつては元という国が馬を駆って治めていた。日本も海を隔てて孤島の位置にいたが、危うい戦いを強いられた。
ただ、今思うと地政学的にランドパワーであった元が海をわざわざ渡ってきたのはリスキーだったかも知れない。気候とかをよく知る水先案内人がいれば台風の時期を避けたかも知れない。ランドパワーとシーパワー両方を治めようとしたのが元の失敗だったと考えると面白いかも知れない。

話がずれたが、司馬遼太郎のような少年のような好奇心をいつまでも持ちたいと思った。

また、彼は速読術という天賦の才能があった。本を読む時は視線を固定したままパラパラと本をめくる。カメラのように文書を絵として記憶していたのだろう。彼が何かテーマを決めると神田の古本屋からトラック何台もの本が運ばれていったのは有名な話である。膨大な書籍を読み終えたことが、「前人未到のベストセラー作家」へと繋がったと言える。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?