他言語話者の境界線

「私は日本語・英語・ノルウェー語・韓国語が話せます」

こういう文章が会話で出てきたとき、あなたはその人をどう捉えるでしょうか?

世界を股にかけて活躍するグローバル人材?海外経験豊富な人?教養のある人?それら全てと他にも色々。

その時の会話主や文脈で千差万別のはず。

じゃあ、実際にそういう人は、その言語をどれくらい話せるのか?

他言語話者だと公表した彼/彼女の言語能力を推し量る物差しを、私たちは多くの場合持っていないのではないでしょうか。そりゃそうだと思います。私もラテン系言語はからきしですから。

「multi+lingual」という言葉が「複数の言語を操る人」という意味を示す以上、複数言語を「話せる」ことがmultilingualの条件であることは明白。

単語の語源から遡って考えた時、「どれくらい」話せることが、multilingualを名乗る境界になっているのでしょうか?

持論から先に入りますが、「多かれ少なかれ意思が伝わるならば、話者として成立する」と私は考えています。

言語は非常に奥深いもの。主に会話のツールとして現代に存在していますが、その本質は民族や風土の歴史と文化の結晶体。

挨拶ひとつ取ってみても、日本語の「こんにちは」が各言語でどのように解釈され、どのようなルーツを持つかは本当にそれぞれ。

逆に言えば、各国語で挨拶ができて、相手側の文化に即した最低限のやりとりが図れるなら、それはもう、連綿と続く言語の理解者となり得、立派な話者となるのではないでしょうか。

Multilingualを定義する上で読み書きの能力を題としませんでしたが、コミュニケーション能力と言語能力は一致しないという考えに拠ります。よくTOEIC満点などと宣伝する人/媒体を見かけますが、そういった人が果たして本当に「英語ができる」のか?甚だ疑問です。だってあれは、Listening &Readingだから。勉強すれば(誰でもとは言いませんが)高得点を取れるはずです。実生活で使えるかなど、あのテストは何も保証はしていません(私は決してAnti-TOEICではありません。ひとりの英語学習者として高得点を取れる人を尊敬します)。

Multilingualを目指す上で最も大切なこと。それはとにかく話すことに尽きます。日本の某バラエティ番組で芸能人を海外の街中に放り出し、素っ頓狂なやり取りで笑いを取る企画がありますが、企画はさておき彼の行動こそ素晴らしい。とにかく話すこと。文法ミスや相手からの捉えられ方などどうでもいい。相手の言語で話し、自分を発信すること。これ以上もこれ以下もありません。

自分の思いを言葉に乗せて相手に送る。ヒトがまだ文字を開発する前から続けてきたやりとりの本質はここにあります。これができたらもう、Multilingualを名乗るに値すると思います。

Didとhave doneを間違えることは重大なことでしょうか?会話において、断じて否です。

それゆえに、「英語「で」学び」、「グローバル人材を目指す」ことを標榜する大学にいながら、授業中のグループディスカッションでお葬式のような雰囲気になることは、ありえないはず。

大学に入って3度目の冬が始まりますが、授業が楽しい議論で満たされることを祈っています。

どうか、これまでのように、投げたボールが帰って来ない事がないように。


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