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(500)日のサマーを4年ぶりに見た

同じ映画や漫画でも、時間が経つと全く見え方が違ったりする。

恋愛映画や、恋愛の漫画・小説などが一番わかりやすいだろう。その時の自分の恋愛の具合によって、きっと作品の見え方は違ってくる。

自分の立場や、考え方は常に変化している。作品は変わらないが、自分は変わる。

面白いよね。


そう思ったのは、最近(500)日のサマーを見返したからだ。

前に見たのはきっと大学生の時だった。二十歳そこらだった気がする。まだピュアピュアだった時代だ。当時の感想は、「サマー超ビッチじゃん」だった。

当時一緒に見たのは確かその時付き合っていた彼女で、その子が言った「こういう事しちゃう女の子確かにいるよね」というセリフに、「えー??」と思ったものだ。

当時の僕は完全に、ナードな主人公であるトムの目線でしかこの映画を見られなかった。

あれから4年。恋愛だったり恋愛じゃなかったりするところで、当時よりもだいぶ経験は増えた。4年前、元カノが言っていたセリフの意味も痛いほどよく分かるようになった。

それで見ると、今度はサマーの立場からもこの映画を見られるようになった。

すると不思議な事に、トムのほうが際立って不可解な人物に見えてきた。「普通の恋愛」をすごい速度で押し付けてくる彼。サマーは初めから恋愛に発展させる気はないと言っているのに。

そして今回、この映画を見返した感想は「どちらも一長一短あるな…」というものに変わった。

この映画は、冒頭

AUTHOR'S NOTE: The following is a work of fiction.
Any resemblance to persons living or dead is purely coincidental.
Especially you Jenny Beckman.
Bitch.
「これから始まるのは架空の物語だ。生きている者もしくは死者と似ている部分があったとして、まぎれもなく偶然である。特にジェニー・ベックマン。クソ女め。」

という字幕から始まる。

つまるところ、脚本を担当したスコット・ノイスタッターという人物がジェニー・ベックマンという女性に袖にされた経験を元にこの物語は描かれている。(こんな私怨を映画の冒頭に出すなよ、とは思うが…)

ただ、それなのにも関わらずこの映画はサマーにもトムにも感情移入できるようになっている。おそらく脚本家はトムのような立場で経験をしたのだろうが、トムに寄る事なく客観的に見られるように描かれているのがすごい。


たまに昔見た映画や漫画を読み返すのもいいね。

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