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世界線と聞いたら

 今回の話にオチとか結論とかはありません。無限ループの如く延々と話題が続いていくお話です。

 嘘です。

 無限なんてものは人が作り出すものでは存在しないと思います。理屈上は存在しても、厳密には自然の摂理でやがて崩壊していく。そんな運命でしょう。
 それはつまり、人が永遠ではないことを意味します。では、我々はなぜ生まれ、なぜ増えていくのか。永遠ではないからこそ、永遠に近づきたい願望の表れなのかもしれません。

 さて、話が最初から脱線しました。
 脱線……。
 今回は「世界線」について思うことを話していきます。世界線という言葉は、相対性理論で出てくる言葉のようですが、昨今では、「〇〇の場合の世界」といったように、パラレルワールドやマルチバースといったニュアンスとして使われることが多いです。
 昨今の意味として使われるようになったのはシュタインズゲートというゲームが由来のようです。そこで、文字だけを見ていただきたいのですが、どこか電車のような感じはしないでしょうか。山手線や中央線といった〇〇線の一つに世界線があっても違和感はないのではないか、と(どこを走る線なのかは置いておいて……)。
 しかし奇しくも電車のイメージと世界線のイメージはマッチするのです。電車の分岐点がまさに運命の分岐点の如く、世界線の分岐点と言い換えることができるのではないでしょうか。そう考えると、シン・ヱヴァンゲリヲン劇場版のポスターが、線路に佇む主人公というのも納得がいくものです。彼は世界線の電車に乗っていたのですね。

 某歌詞で「出会える世界線 選べたら良かった」というものがあります。
 果たして別の世界線は本当に理想的なのか。
 人生における世界線についてはわかりませんが、恋愛における世界線の理想はあるのか。
 現世界線をA、理想の世界線をBとします。Aでは異性が好きなタイプが自分ではない。でもBなら異性のタイプが自分かもしれない。
 しかし、世界線Bの異性は、世界線Aの異性その人ではない。はっきり言って別人です。それなら最初から別の人を好きになったほうがいいのではないか。もっといえば、自分を好意的に思ってくれる人をAで見つけるべきなんじゃないかと思います。
 だから世界線を変えたところで、虚しいだけなのです。世界線を変えるのではなく、自分の思いを変えることが大切なのではないか、と。
 違う世界線を夢想することは悪いことではありません。しかし、世界が違うということは、同じように見える自分も他人も違うんですね。
 それに、無限に続く世界線のなかから、たったひとつの理想を見つけ出すことを考えたら、自分の気持ちを切り替えることのほうが遥かに簡単そうです。

 私は今の世界線に満足しています。
 
 ただ、時々、どうして自分はこの時代に、この身体に生まれたのだろう、と思うことがあります。そのとき、どうしようもなく、自分の意思があることを理解できず、心が壊れそうになります。自分の存在を自分に問いかける行為は、なかなか危険なものです。思考を一旦シャットダウンさせないと夜も眠れなくなってしまいます。

 もし、他の世界線の自分がいるなら、その自分たちはどういう気持ちでいるのか、話を聞いてみたい思いはあります。というか、生き残っている世界線もあれば、死んでしまった世界線もあるはずなんですよね。亡くなっている世界線の自分には墓参りに行きたいかな。

 今回の話にオチとか結論とかはありません。無限ループの如く延々と話題が続いていくお話です。

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