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【書評1】 宇沢弘文 『社会的共通資本』

2020年度は学部生として過ごす最後の年で、これまでの学びを何らかの形でまとめつつ、卒業後も最速で進んでいくためにさらに広く深く学びを追究する年にしたいと思っている。

僕は昨年の晩夏に経済学で院進することを決め、それ以来研究と研究テーマ探しを繰り返してきた。しかし折角学んだことが笊のように流れていく感覚があり学んだことを書き留めるようにしたいと前々から思っていた。そこで昨年末から温めていたアイデアの一つがこの書評で、「書く」表現力の改善を兼ねて、定期的に簡単なレポート形式で学んだことをまとめていくことにした。(書評のレベルは研究レポート(感)のものを目指す(努力目標))

なお、書評は自分へのメモという趣旨が7割、成果をPublishしたいという趣旨が3割なので、スピード重視で要点を整理していくものになるだろうから、読みにくい部分が出てくる可能性はある。そこはたくさん書いていくうちに改善していきたいと思う。

元来物事を継続的に行うことが苦手なので、年末までに50冊分の書評を書くという目標を立てることにする。言霊とはよく言ったもので、昨年末に「年内に累計100km走る。」ということをTwitterで宣言してしまい、12月の29日~31日に合計40kmを走って怒涛の帳尻合わせをする羽目になった。がしかし、しっかりと達成できたのだからそれなりの達成感を味わうことができたし、年末ダッシュのおかげで年始を良い体調で迎えることができた。

目標を宣言しておくと簡単にやめることができなくなるので、これからもこうして自分で始動したプロジェクトには目標を立ててしっかり達成する癖をつけていきたいと思う。

前置きが長くなったが、以前より書評の1冊目はこの本にすると決めていた本がある。宇沢弘文の『社会的共通資本(岩波新書)[新書]』である。

宇沢弘文_社会的共通資本


僕は大学に入って自分の人生を大きく変える出会いを2回経験した。そのうちの1人が宇沢先生である。(もう1人は別の書評で紹介したいと思う。)宇沢先生は2014年に逝去されておりもちろんお会いしたことはないが、初めてこの本を読んだ時は顔面を殴られたような衝撃を受けたのを覚えている。

それまで僕は経済学について大した関心を持っていなかった。というのも大学で学ぶ初等経済学は新古典派経済学(いわゆるミクロ・マクロ(こんな雑な分け方をしたら誰かに怒られそうだが))で、利潤・効用最大化だの市場均衡だのと社会を極端に簡単化して数理モデルに落とし込む学問であるように思えて、到底何の役にもたつまいと学ぶ意義を感じられなかったからである(今では少しは意義を感じているつもりだ)。そんな時に僕は本書に出会い、学問にはもっと人間らしさを込めても良いのだ、経済学はもっと人間臭くていいのだ、むしろそうあるべきなのだということを知ったのである。

宇沢先生について少し紹介したいと思う。宇沢は日本でもっともノーベル経済学賞に近いと言われるほど凄まじい業績を残した経済学者で、36歳でシカゴ大の教授に就任し、新古典派理論の発展に貢献しつつ、スティグリッツやアカロフなど錚々たる経済学者を育てた。しかしベトナム戦争を経験したことで、それまで新古典派経済学が支えてきたパクス・アメリカーナに対する信頼を喪失するとともに、自身が貢献してきた学問を懐疑していくようになった。

それはまた、当時支配的であった新古典派経済学、あるいはアメリカン・ケインジアンの理論的根拠が、思想的にも、学問的にも、まったく空虚なものであることを明らかにしたのであった。(宇沢, 2000, p.14)

こうして宇沢は40歳の時に東大に戻り、学問的に大きな方向転換をした、これを境に前期宇沢・後期宇沢と呼ばれることもある。彼はそれまで自身が貢献を積んできた新古典派経済学や、ケインジアン、マネタリズムを批判するようになり、さらには成田空港の建設反対や公害対策・教育改革などの先頭に立ち、社会運動家としての側面を強めていくことになる。そこには新古典派経済学が支える分権的市場経済制度に対する深い反省がこめられているようだ。

実質所得と富の分配の不平等化、不公正化の趨勢は、様々な平等化政策、とくに累進課税制度がとられたにもかかわらず、止めることはできなかった。・・・ 利潤動機が常に、倫理的、社会的、自然的制約条件を超克して、全体として社会の非倫理化を極端に推し進めていったからである。と同時に、投機的動機が生産的動機を支配して、様々な社会的、倫理的規制を無効にしてしまう傾向がつよくみられるようになってきた。(宇沢, 2000, p.19)

宇沢はそのような背景から、経済学の既存枠組みを超えて、「新しい、リベラルな経済体制の理論的枠組みを模索」(宇沢, 2000, p.14)したのである。そのためにより高い視座に立ち、市場的・社会的・政治的に、人間社会をいかに理解するかについて追究したのだ。そこには宇沢の「ゆたかな社会」への渇望という剥き出しの思想がある。その思想の集大成が、「ゆたかな社会」を実現する装置としての「社会的共通資本」の概念なのである。

本書は私に、経済学を極めることでこんな景色を見ることができるのかということを教えてくれた本なのだ。


後期宇沢が目指したのは人々にとっての「ゆたかな社会」の実現であり、そのために依拠したのが制度主義の考え方である。社会的共通資本について説明する前に制度主義について説明する。

制度主義ではまず理想とする社会状態を想定するか、或いは現実の社会状態を観察し、そのような社会がどのような性格、制度的特徴をもっているのかということを考察の対象とする。このような思考方法をとることには重要な含意がある。それは次のようなものである。

すなわち、制度主義的考え方の下では、社会は「それぞれの地域や国のもつ倫理的、社会的、文化的、そして自然的諸条件がお互いに交錯してつくり出されるもの」(宇沢, 2000, p.20) として捉える必要があり、市場経済の構造を捉えるだけでは社会そのものを捉えることができないということである。このような特徴から、制度主義は極めて広い学問分野を統合する総合的な研究になることが分かるだろう。

制度主義的考え方の下では、まず社会の環境条件を明らかにし、そのもとで各個人などの経済主体のパフォーマンスが決まると考える。ここでやっと社会的共通資本という概念が登場する。

社会的共通資本は自然環境、社会的インフラストラクチャー、制度資本の三つの大きな範疇にわけて考えることができる。自然環境は、大気、水、森林、河川、湖沼、海洋、沿岸湿地帯、土壌などである。社会的インフラストラクチャーは、道路、交通機関、上下水道、電力・ガスなど、ふつう社会資本とよばれているものである・・・制度資本は、教育、医療、金融、司法、行政などの制度をひろい意味での資本と考えようとするものである。(宇沢, 2000, p.5)

社会的共通資本とは、言うなれば広義の環境条件であり、この存在があって初めて人間が必要とする基礎的サービスが充足され、生産を営むことが可能となる。

そこで問題となるのは、社会的共通資本が誰によってどのように管理されているか、より砕いていえば、社会的共通資本の整備のために政府からどれほどの経常支出があるか、その管理は専門的知見や職業的規律によって道義的責任を満たしているか、それらの間の財政的バランスは取れているのか、ということなのである。

宇沢はこのような議論を通じて、既存の経済学的枠組みでは解決できなかった社会の病理を明らかにしたいという願いがあったようである。例えばケインジアンに対しては以下のような問題意識を表明している。

ケインズ経済学が前提としていたのは、・・・最低生存のために必要な最小限の所得水準以下の所得しか得られない人々に対しては、直接的な所得のトランスファーを通じて、事後的に救済しようということを暗黙裡に前提としていた。(宇沢, 2000, p.37)

また、ケインズ経済学が破綻した1970年代以降の経済学、例えばマネタリズムなどの経済学は市場機構が果たす役割に過度に正当性を与える新古典派経済学の流れを汲むものであり、これまたより住みやすい社会をつくるためにはどうしたらいいのかという視点を欠いているということを指摘している。

宇沢はこのような問題意識のもと、経済学本来の分配の公平性や貧困の削減といった役割に再び焦点をあて、そのために必要な新しい経済学の理論的な枠組みを社会的共通資本に求めたのだと考えられる。


最後に、本稿の冒頭で述べた通り、私はこの本を初めて読んだときに顔面を殴られたような衝撃を受けたのだが、それは人間にとってよりよい社会・経済制度をなんとしても実現しなければならないという信念を感じたと同時に、宇沢先生が依拠する制度主義が、社会に息づく歴史や文化、人々の価値観といったものを考慮に入れており、これまで私自身が学んできたことでは到底社会を理解し得ないのだという危機感を感じたからである。

私が経済学で院進しようと思ったのも、この本がきっかけだったのではないかなと思っている。それはこの本を通じて、経済学が市場経済だけを対象とするのではなくて、人間社会を理解するために非常に役に立つツールであるということを知ることができたからだ。

とはいえ経済政策や財政政策を理解するためには現代経済学をしっかり学ばなければいけないなということも感じていて、本書で受け取った批判精神のようなものを心に留めながら幅広く社会科学に関心を拡げつつも、まずは現代経済学のど真ん中を突き進んでいこうと思う。

となんだか書評というより感想文のようになってしまったが、それも今後の課題ということにして、本稿終わりにすることとする。


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