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自己の領分について

「領分(Territory, Preserve)」とは、①本人が繰り返し楽しむ活動(領域)であり、②それを周囲の人に認められつつ共に形成していくもの(教育学者の片岡基明氏による定義,2010)である。

著者の片岡氏はこの単語を発達障害者支援の「目標」として提起したことによって、「発達障害者本人が楽しめる活動」と「支援する人がその活動を承認すること」が、発達障害者の生活充実の源となりえるのではないかという指摘をした。

哲学者岩城見一氏の議論に従い「領分」概念の優れた点について説明すると、これまでの発達障害者支援の中で目指されていた「自己実現」や「自己決定」という語には、それぞれ先天的自己能力による「限られた実現可能性」、あるいは自己決定の背後に見え隠れする「自己責任」、あるいはその自己責任を回避するための「パターナリズム」が潜んでいる一方で、「領分」という概念では「自己」があらかじめ他者との関わりの中で形成されるものだと認識されていることから、現実の発達障害者支援の在り方が良く表されているとしている。

この「領分」概念は著者の教育現場での実践から導き出されたものではあるが、その意味するところは障害者、健常者という境界を超えて適用できるものではないだろうか。少なくとも私はこの概念に、私自身の生存に関わる大切な視点を得られたと思っている。

例えば私は研究活動をやっているが、周囲が就職活動に励む中、研究者への道を進むのは茨の道で、「実現可能性」が低いかもしれないし、結果良い研究者になれずに後悔しても「自己責任」なのかもしれない。しかし研究活動を「自己決定」や「自己実現」ではなく「私の領分」としてとらえ直せば、他者との関わりの中で在り様が揺らぐこと(可謬性)を認めながら、「私」を超えた他者の関与に支えられて、研究活動は繰り返し楽しみながら行う活動になりえるし、そうなれば研究活動に喜びを感じられるようになるだろうし、ひいては人生の喜びを感じることもできるのだろうと思う。

付言したいのは、「他者の承認」は「他者の評価」とは異なるということである。研究者になるためには研究や論文が「評価」され「注目」され「役に立つ」ことが大事なのではないかとつい最近まで考えていたのだが、それは違っていた。研究者の本分は自らが対象とするものや理想とするものを論じるということ、つまり自らが真理だと思うところを突き詰め、そこに信念を持つということである。そのような営みにおいて「他者の承認」は「他者の評価」とは全く異なるものになる。

例えば「他者の評価」が学会での賛同や受賞であって、それを拠り所に研究を進めるのが「他者評価に依存した研究」だとすれば、「他者の承認」は研究という営み自体を周囲に承認された状態であり、「周囲と相互の支え合う研究」になるはずである。そうなるためには、研究内容自体も私の意志が最大限反映されたものでなくてはならないと思う。こうした点において、「他者の承認」と「他者の評価」が全く違うものであるということは強調しておきたい。

結語として、私は、「自己の領分」を持つことを目指していきたいと思っている。それは研究活動の社会的厳しさをある意味で乗り越えたいからでもあるし、研究活動を通じて人生を豊かで喜び溢れるものにしたいと思うからでもある。またこのような意識の転換は、決して研究成果が「社会的に価値の無いものでも良い」という逃げの発想を産むのではなく、むしろ研究成果が「真に真理を追求しているが故、社会的価値を有するものであるはずだ」という自信、あるいはそれが社会的価値を有していないと評価されたとして「では何が真なのかを改めて突き詰めていく姿勢」に繋がるものだと思う。

この小論は、私が4月自分が何を目指すべきなのか分からなくなってしまったために考えたことである。結局悩みながらも研究をしていくことを肯定しつつ、それをより良い結果に結びつける実践が必要なのだろうという結論に達した。その意味で、「自己の領分」という言葉は私の今後の在り方にとしてとても当てはまりが良かった。

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